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3.13.2009

こういうのが

わたしが捨てられないでいる、「ニンゲンの存在」への希望。わたしも希望を紡ぎだせるニンゲンになりたい。以下コピペ。


犬殺処分ゼロ 熊本市の挑戦
持ち込みの飼い主説得 HP開設し迷い犬紹介 生存率82% 地道な努力成果
3月12日15時7分配信 西日本新聞

 自治体が捕獲したり、飼い主から引き取ったりした犬の8割に当たる約11万匹が毎年、全国で殺処分されている。そんな中、熊本市は犬を飼い主に戻すことや新たな飼育者探しを続け、処分率を全国トップクラスの2割以下に減らしている。「殺処分をなくそう」を合言葉にする同市の取り組みが注目されている。
 悲しげな目をした犬が「ガス室」に送られ、殺される場面がビデオで流れる。熊本市動物愛護センターで週1回ある譲渡前講習会。保護された犬を譲り受ける飼い主は、必ず受講しないといけない。2年半前から始まった。ある日の受講者は女性2人。ビデオ放映後、獣医師の斉藤由香さん(27)がペットの面倒を一生みる「終生飼養」の大切さを講義する。
 「犬を飼うのは簡単ではありません。本当に飼えるのか、考えて決めてください」。参加した主婦(47)は「子どもを育てるのと一緒なんですね」とうなずく。
 かつて熊本市は一週間程度保護して処分していた。この“流れ作業”に変化が起きたのは2002年。終生飼養をうたう動物愛護法の理念を生かし、動物愛護推進協議会を発足させ、生存率を上げる取り組みを始めた。迷い犬を飼い主に戻そうと、保護した犬を紹介するホームページもこの年、開設した。
 センターの職員は憎まれ役も辞さない。娘と一緒に認知症の犬を連れてきた母親に「家族同然の犬を捨てていいんですか。娘さんはお母さんの背中を見て泣いていますよ」と翻意を促す。転勤などで犬が飼えなくなる場合、新たな飼い主を探すよう求める。それでも、引き取りを求める人には「犬を飼う資格はない」と非難することも。
 地道な努力が実を結び、熊本市の07年度の犬の引き取り数は1998年度の1割の52匹に減った。飼い主に返還する犬も増え、98年度に12.4%だった生存率が07年度は82.1%に上昇した。
 現在は保護する犬が50匹を超えた場合に処分する。年々、引き取り数が減っているため、保護期間が長くなり、餌代が増えた。増加分は市民やボランティアの寄付で賄っている。
 この試みが注目を集めている。獣医師の斉藤さんは山口県下関市からの派遣職員。熊本市の取り組みを知った下関市長が昨年4月から1年間、研修に送り出した。斉藤さんは「市民を説得する職員に感銘を受けた。このノウハウを下関でも生かしたい」と語る。
 熊本市は4月からセンターの職員が小学校で動物の命の大切さを教える出前授業も始める。命を軽んじる事件が後を絶たない今だからこそ「殺処分ゼロ」を目指す熊本市の挑戦が、ほかの自治体にも広がってほしい。 (熊本総局・野村創)
=2009/03/12付 西日本新聞夕刊=

3.09.2009

そして、終始ネコ




 ネコネタでしか文章書いてないな、いやだな、と感じる昨今。Nがよく「わたしネコきらいだし」と宣っておるが、その気持ち最近よくわかる。でもってその「きらい」はあくまでも表面的なものであることもわかる。
 ネコというフィルターを通して、ニンゲンの本質をわたしたちは見てしまった。それも、簡単に覆せそうにもない「邪」な部分を。ネコは媒介しただけなのだが、本音としては「そんなもん見せてくれるな、ばーか」という感じか。でもどのみち、わたしたち親子は、ネコを介さずとも、「この星からニンゲンを削除したい(自分含む)」という抗うことのできない、切ない感情に行き着いてしまっていたと思う。 
 極端なのだが、わたしはもう「ニンゲンのため」というこころを7割方捨てた。正直、どうなっても良いとまで考える。もちろん自分含む。にしてもだ。じゃあなんで「ニンゲン」が「ニンゲン」として、現れ、進化し、発展したのかという疑問は一向に晴れないのである。
 「ニンゲンのため」を捨て切れずにいる残った3割は、そういった疑問を晴らすための希望として、温存している。でなければ、わたしすぐに死ななきゃだしな。存在の『意味』なけりゃ消えるべきだしな。
 そして、答えを自分で掴むためには、もう行動するしかない。それも、前述したような10代の頃とは違い、一つ一つ確実に意味とか脈絡とか考えつつ。「人類滅亡」がこの星にとって最善の選択ならば、それは真摯に受け止めねばと思う。だが、まだまだ諦め切れないのだ。
 おおよそ世間的には、健全とは言えないことを考えながらも、なぜか晴々とした心持ちでいる。そこにちなんで、日々苦しかったり悲しかったり頭にきたりはしているのだが、まだわたしには「希望」がある。そこに向かう足はある。ここ数年で一番、前向きですっきりとした心理状態だ。それもこれも、わが家のネコたち、その他に出会ったネコたちのお陰なんだなぁと、本当は地団駄踏むくらい悔しいのだが、認めないわけにいかない。くそー!







3.08.2009

罪人という自覚

 「ネコの避妊去勢の活動やっていると言うと『偉いね』っぽいこと言われるけど、全然偉くないし」とNがよく激怒している。全くもってその通り。善いことをしているなんてこれっぽちも思ったことはない。わたしたちが如何なる心痛や逡巡や罪悪感やらを持ってその行動に携わっているか。平静を装いながら、胸のうちでどれだけ泣き叫んでいるか。謝罪し尽くしているか。よく考えてみれば、明白なのである。規模は小さくとも、これは人為的な生殖コントロールでしかないのだ。尊い生命のバランスを目茶苦茶にしかねない、愚かで破滅的な行為でしかないのだ。
 ではなぜ、そういう当たり前の真実を黙認しながらも、行動せざるを得ないのか。その答えは極めてシンプル。「無駄死に」する子を見たくないからだ。あまりにも個人的且つ感情的な答えで我ながら唖然とする。なんだかな。一番悪いのオレらじゃん?みたいな。でも、巨大な罪悪を背負いながらも、手を出さずにはいられない。死んで地獄に落ちようが、わたしは知らない。地獄?言うならば今わたしが存在する『ここ』以上の地獄があるのか、と。
 カントが縁で知り合えたNさんが、その友人から言われた言葉。「ネコの保護活動?それはあなたが裕福で幸せだからできるのよ」。わたしが友人のバカ夫から言われた言葉。「じゃああさちゃん、うちの周りのネコの避妊去勢も頼むよ」。くそ。こんな隣人が大方である世界が地獄でなくてなんだと言うのだ。
 以前、わが家から出した地域ネコ一号のミケ。昨夜久し振りにマンション敷地内で会えた。バッグの中の缶詰をあげた。聞くところによると、ミケは現在うちのマンションの一階宅の庭に寝床まで獲得しているらしい。心優しいその一階住人の方は、寒かろうと庭に段ボールを出してくれているようだ。うれしい。救われた気持ちになれる。お礼を言いにいきたいぐらい、うれしい。
 今年に入って読んだ本
人類が消えた世界(アラン・ワイズマン)→生きるということ(E・フロム)→沈黙の春(レイチェル・カーソン)

 まだまだ「答え」は出せないのである。

 最後にNのありがたいお言葉。「そんなに去勢するのが偉いなら、わたしは喜んでニンゲンのちん〇切り落としてまわるよ」…はい、皆さん、拍手!!!!!

3.07.2009

ついさっき


 出会った二人。ぽこちゃんいないかなーと、ふらふらと小さな通りに入り込んだら、いた。あまり幸せそうに見えなかった。涙がこぼれて仕方なかった。なにもできなくてごめんなさいと思った。その場から離れて、なぜかどうしようもなく腹が立って、通りすがりの電柱を殴った。左手の甲に青あざができた。

3.04.2009

花の女子高生

 先日Nが16歳になったのだが、しばしば自分が10代の頃を懐かしんでみたりする。
 いやー。恥ずかしいくらいとんがっていたな。うん。恥ずかしい。今のNの冷静さや論理的思考やらを、ちょいとばかしわけてもらいたいぐらい、感情のまま動いていた。勉強もした。バイトもした。恋もした。喧嘩(主に乱闘)もした。学校は辞めた。そして10代ではなかったが、大好きな友だちに死なれた。
 今も当時とかわらないぐらい、世の中を斜に見てはいるのだが、その頃は「じゃあこう行動しよう」という脈絡のあるアクションがとれなくて、なかなかにはちゃめちゃだった。今思い出すと、もうなんだか自分のことながら、可哀相に…と憐れみの念さえ湧いてくる。
 年齢を重ねて一番よかったなーと感じるのは「しょうがねーな」と諦められることが増えたことかもしれない。こうできることによって、心理的に非常にラクになれた。もちろん「しょうがねーな」と思えないことは山の如しで、おそらく世間的な38歳のおばさんたちと比べたら、怒りに満ち満ちた日々を送っているのだろう。につけても、楽チンになれて、10代の頃に比べれば毎日ウキウキな感じなのだ。そして「しょうがねーな」と思えない状況に遭遇した際に、暴力以外の方法で解決しようと努める丸さも賢さも、年齢と共に備わってくるのだ。歳を重ねるとは、ラクになれるということなのだな(曲解かな)。
 更にこの2年ほどで、また新たにラクになれた。というのも、主に自分の「生」「死」の概念が刷新されたからだ。これには、ネコたちとの出会いが大いに影響している。もちろん、わたしが現在10代ではないからこそ、到達できたのだが。こんなにも日々を楽チンに過ごせるなんて、昔は予想もできなかったわけで、Nと同年齢だった頃の自分を、今思い切り労いたくなる。
 今目の前にわたしのこどもとして存在するNを見るにつけ、「しんどいだろうなぁ」と思う。が、その「しんどさ」を取り除く術は、親と言えども持ち合わせておらず、あくまでもN自信に切り開いてもらうしかないのだ。だが、『大いなる怒り』の矛先は、わたしと同じ方向に照準が合っているようなので、もうしばらくの間はNのしんどいを少しは背負えるかもしれないかな。

3.01.2009

2/27N生誕記念祭


 ぽこちゃん。推定5、6ヶ月。Nの誕生日の日、会社帰りの地元駅で出会った。駆けていく後ろ姿が視界に入ったので、思わず「お、お、ちょっと待っておくんなまし!」と声をかけてしまった。そうしたらば、嘘みたいだけど、止まってくれた。そして振り返って、わたしの目を見て「にーにー」と言った。「お腹がすいてまーす!」と脳内猫語翻訳機が翻訳結果を出した。そうか。腹が減っては…だろうよ。だが、おばさん食い物なんも持ってないのよ。おばさんここから立ち去ったら、あなたきっといなくなるでしょう?「にーにー!」(お腹減ったよー)。わかった!ちょっと待って。今、使える16歳になりたて女子高生呼び出しちゃうから、少しだけ待ってくれ!「にーにー!」(ごはーーーん!)
 小雨が降りしきる冷たい夕闇の中、傘もささずにNは猫ご飯を持って駆け付けてくれた。Nを待っている間わたしは冷たい路上にペタンと座り込み、ぽこちゃんに手を差し出した。そして首筋を撫でた。ぽこちゃんは気持ち良さそうにわたしの手にスリスリしてきた。…う。や、やばい。かわいい。間もなくNが到着。

 帰宅ラッシュの駅構内の片隅で、小さく屈む親子と、がつがつメシをかっくらう小動物。通り過ぎて行くヒトビトからはどんな光景に見えるのだろう…とその場では思うことさえできず、座り込みぽこちゃんに我々は何ができるかを思い悩む。この子は、絶対人慣れして、「ぎ」のつく誰かさんなんかとは比べものにならないくらい優秀な「飼いネコ」になれる!と思うのだが…それ以上の発展的な案は浮かばず。しばらくここに通って、ご飯あげつつ、捕獲のタイミング見計らいつつ、というのが遠回りのようで一番の近道なのだろうな、という結論。が。捕獲はいいが、一体誰がこの子の親になるんだ?え?うち?うちは無理ですよ。無理でしょう、どう考えたって。え?ニンゲンやってできないことはない?は?どの口がそんな大層な夢物語を吐き出せるんだ?…以下永遠ループの独り言。

 ぽこちゃんはたらふくご飯食べたあと、ぴょーんぴょーんてな感じで通りの向こうに駆けて行った。車が通る道をわき目も振らずに一直線で走り抜けて行ったので、非常にハラハラした。


 Nと抱く大いなる野望。ひたすらネコの去勢避妊を施して、完全に数をコントロールしてしまい、ネコ自体の数を激減させてやつらを希少種にしてしまう。でもってうちの子ら高値で売ってやるー。…とかなんとか言いながら、帰路につく。


 今さらですが、Nよお誕生日おめでとう。この母親の元よくぞ16年間道を違わず生きてくれました。ありがとう。が、あれっぽっちのダッシュで筋肉痛というのは、あなたの年齢ではいささか解せないので、ひとまず運動しましょう。