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5.28.2008

こころの景色

 ここしばらく、憂鬱な気分が全く晴れなく、ということは前述の通り。ただし、食欲も睡眠欲も正常の範囲なので、あまり自分でそこを深く突っ込むことはやめにして、「単なる五月病」としてエイヤっとねじ伏せておくことにした。
 でも、一つ気付いたことがある。こういう状態の時は、一日の中で感情の振幅が極めて小さいのだ。小さいこともさることながら、一つの固定の感情に支配されていることが多い。
 ちなみに今日は「哀」の感情。何を見ても、涙が溢れそうになる。我ながらびっくりしたのは、朝通勤電車を待つ駅のホームで、隣り駅にスーッと伸びて行く線路を見て涙ぐんでしまったこと。そこに「哀」が見えてしまった、と言ったところで誰にも理解してもらえない。多分。
 「怒」に支配されている時のわたしには、近寄らぬ方が良いかと。全部に腹が立っているから、そんな時には総力を上げて全身全霊で、オールタイム戦闘態勢でいる。ので、すぐケンカができる。ので、サワルナキケン。
 一番多いのは「諦」の情景。どんなに天気がよくても、わたしの目の前にはグレイの世の中しか広がっていない。「諦」から派生して「哀」と競合したり共鳴したりすることも、ままある。
 とにもかくにも、マイナス感情、それも大概一個だけが、わたしの頭のてっぺんから爪先までを貫いてしまうのだ。連日そんななので、しんどい…そう考えると、ニンゲンって本当に「感情」の動物なのだなぁと感心せずにはいられない。あちらこちらに自由にこころを動かすことで、自らの精神のバランスを保っているのかもしれない。そうすると、今のわたしは、こころのどこかの回路が何かの理由で遮断されて、潤滑に巡っていないからバランスが崩れてしまっているのだろうか…などと、冷静に結論を出したりして、我ながら「あほか」と思う。

 昨年の今日は、あまりにもいろんなことがありすぎて、忘れ難い日になっている。「哀」も「怒」もあった。そして「喜」も。
 それぞれが、わたしが抱えきるにはとても大き過ぎて、パンクしそうな自分がいたっけ。

5.26.2008

音楽漬

 久しぶりにパソに向かってキーボードを使って書いてみる。いつもは、ちょっとした空き時間に、ケータイに書き溜めている。そして、後からつなぎ合わせたり組み合わせたりする。
 昨日は大変濃厚な一日を過ごした。昼過ぎから、サントリーホールで催された日本フィルのベートーベンを聴きに。その後場所を変え、新宿ピットインでイケメンテナーサックス橋爪亮督のリーダーバンドのライヴを聴きに。両者それぞれが物凄くて、圧倒された。
 クラシックオーケストラを聴きに行くのは実に4年振りだった。普段、音楽を聴きに出入りしている場所は、JAZZの、それもとてもマニアックでアンダーグランドなライヴハウスばかりなので(事実地下に存在することが多い)、数年ぶりにホールで何百という聴衆の一人になっている、そのこと自体がなんだかウキウキする事柄だった。今年は年頭に「絶対オーケストラを聴きに行く」と目標を立てていたので、ひとまず、目標達成。達成に導いてくれたMちゃんに感謝。
 わたしの後ろに座していた方(知らない人)がクラシック通のようで、休憩時間に披露してくれたクラシック豆知識には思わず「へえーーーー!そうなんですかーーー!」と大きくリアクションしたくなってしまった。が、見知らぬ人。グッとこらえた。「のだめカンタービレ」という漫画がおおはやりして、我が家にも、半分くらい文庫が揃っているのだけど、何故かわたしは読んでいない。あの人にもこの人にも「おもしろいよ」と言われるのだが、読んでいない。「漫画は『銀魂』しか読まない」とこころに決めているわけではないのだが、読んでいない(だって、両さんも読んでるし)。なので、いい機会だから、是非読んでみようと思った。
 今更ながら、ベートーベンはすごいコンポーザーだなと感じた。こんな風に簡単に言葉にしてしまうのは、非常におこがましい気がするのだが。その楽曲たちには、「悲嘆」や「苦悩」の瞬間が大いにちりばめられているのだけど、最後には「希望」に達する。わけのわからない、不定愁訴的な、「悲嘆」に暮れているわたしの心身がかなり揺さぶられた。そして改めて、この偉人は、作曲する際には、脳内でフルオーケストラの音が鳴り響いていたのだろうな、と思った。でないと、あんなシンフォニーは作れない。以前ピアノを習い、ベートーベンのソナタを練習していた時にも同じことを感じた。「あ、このフレーズはきっとこの楽器が鳴っているのね」とオーケストラの音色を想像しながら練習をしたものだった。ピアノソナタで、へたくそなわたしが練習しながらイメージできるのだから、楽曲がいかに豊かかがわかる。ああ。やはり、半期に一度くらいは、薄暗い地下のライヴハウスではなくて、開放的なホールで音の塊に包まれないと…と思いつつ、その足で、薄暗い地下のライヴハウスへ。
 これまた、約1年半振りの橋爪バンド。バンド全体のサウンドの「鳴り」の変化にとても驚いた。5人のアンサンブルによって生み出されてくる音の塊が、昼間聴いたオーケストラと遜色ないくらいに、色鮮やかで、わたしに迫ってきてかつ、心地よかった。5,6年程前に、この橋爪バンドで演奏するドラムの橋本学の音に撃墜され、それ以降彼の追っかけと化しているのだが、橋本学自身の「音」もえらく変化したなと感じた。より、しなやかに。そして、より自由に。橋本学が、橋爪亮督グループという大地を縦横無尽に楽しげに駆け回っているように映った。そして、不思議なことに、橋本学自身のリーダーバンドでの演奏より、こちらでの演奏の方が「主役感」を大いに発しているのだ。なぜなんだ。不思議。
 
 大満足で帰宅して、今日一日の体験が明日からの糧になればよいなという淡い期待を持って就寝したのだが、朝起きた瞬間からヘコんでいた。
なんだかな。自分がよくわからない。乙一読もう。
 

5.20.2008

鬱・鬱・鬱

 かなり病んでる感じ。周期的にやってくる「気分」ではあるのだけど、今回はかなり久方振りなので、こういう感覚の適切な処理の仕方を忘れ去っている。だからか、面食らってうろたえている。どんな感じか脈絡考えず書き出してみる。
 ニンゲンの「非」の部分しか目に付かない。自分を含む。そして、憎しみの感情が充満する。いつでもどこでも、誰にでも言い掛かりをつけて、殴りかかりたい気分。そしていっそのこと、殴りかかった相手に殴り殺されたい。そんな気分。
 ニンゲンは、進化発展していく中で、様々な犠牲をこの星に強いてきた。そのことを考える時に、元気な時には、「その犠牲を軽減するために自分ができること」を考えることができるのだが、今は破壊的なことしか思い浮かばない。かつてNが口にした名言で「ニンゲンは地球の『毒』だ」というのがある。全くもってその通り、毒を駆除しましょう、自分含む、と考えてしまう。自分というニンゲン一人が存在することで、如何ほどこの星を消耗しているのかを想像すると、吐き気がしてくる。
 日本という国は、わたしにとってとても生きていくのに苦しい場所だ。弱いものに容赦がないから。協調を重んじ、群れないと行動できない。自分の権利だけは声高に叫ぶことはできるが、他者の権利を受容する度量はない。所謂「フツー」でないと、コミュニティから排除される。あぁ、もううんざり、となる。そしてやはり、元気な時ならば、「〇年後には日本を出る」と具体的な案を思い浮かべそこに向かうことができるのだが、今はてんでダメ。自分の存在地や存在そのものを否定しまくって、自分で自分を追い込んでいる。「こころ」がなくなればいいのに、と思う。
 生と死を分かつ決定的なものっていったいなんだろう、と考える。今現存する「わたし」という物質がなくなるのが死ではあるのだけど、では「わたし」という意識はどこにいってしまうのだろう。そんなことも、延々と考えてしまう。
 引きこもりたい。でもお金のために仕事いかなきゃだ。そして、「こいつも死ねばいいのに」と胸のうちで思いながら、表面に笑顔を張り付けて一日を過ごさなきゃだ。そんな自分に反吐が出そう。

ずいぶん古い本だが、最近ようやく読み終えた本が一冊。
「戦争の記憶」イアン・ブルマ著
たくさんの人に読んでもらいたいと感じた。

 あとは乙一をたくさん読んだ。こんな話読んでるから上がっていかないのかなとも思ったり思わなかったり。でも、おもしろいんだもの。やめられないんだもの。わたしに勧めてくれたNよ、ありがとう。でも、ちょっとだけ恨む。

5.12.2008

息子とその母

 この春中学一年に進級したW。しばらく前にアップした動画の、あのダンスを元手に、某スポーツクラブの選抜チームのオーディションに見事合格し、4月から、非常に厳しいレッスンがスタートしている。並行して、中学校では吹奏楽部に入り、入部した途端、指導者からギター譜をドカドカと渡され、毎日泣きのギター練習をしている。…そんなこんなで、本気の集団に、それも2つ同時に所属することになり、どっぷりと活動にハマりつつあるW。最近、弱音ばかり吐いているのである。
 4月にあったダンスの初めてのレッスンの日。帰り道Wは非常に浮かない面持ちでいた。気に懸り、途中のマックでお茶しがてら話合いをした。本人の言葉では「吹奏楽に打込みたいから、ダンスは辞めてしまった方がいいと思う」という心境になったようだ。
 が、その意気込みとは裏腹に、昨日とうとう吹奏楽の練習後、彼は泣きながらうちに帰ってきたのだった。「ただいま!」と元気を振り絞って言ったものの、わたしの顔を見るなり、泣き崩れてしまった。「もう頭がパンパンで破裂しちゃった」と泣きながらこぼしていた。思わずもらい泣きしそうになったのだが、グッとこらえた。彼が自分で選んだ道。そこに理不尽で納得がいかない何かがあるわけではないから、「かわいそう」と思ってはならないのだ。その場に座らせてゆっくり話を聞く。

 彼は今まで、何事もソツなくこなすやつだった。ダンスもギターも、そこそこの練習だけで周囲の人間から、「うまいよね」と称賛されることができていた。しかし、今彼が身を投じているのは、「本気の集団」。そこそこの練習だけでついていける訳がないのだ。
 ダンスレッスンでは、たかだか15分程度の振りの指導だけで、いきなり踊らされ、「ボロボロやな」とコーチから酷評される。吹奏楽では、死ぬほど曲を渡され、一個一個コードを拾い頑張って練習した曲はスルーされ、出来上がっていない曲を指して指導者から「〇〇ぐらいはできるようになっていろ」と厳しいダメ出し。…今まで何かとチヤホヤされてきた分、自分の「できなさ」を改めて突き付けられると、あっという間にWは崩壊してしまうのだった。しばらく前に彼はこんなことを言っていたっけ。「俺はダンスチームでも吹奏楽でも、びりっけつだ…」と。このまま、卑屈になっていじけて、両方投げ出すのかな、となんとも言い難い漠然とした不安を感じてしまった。
 しかし。そんな彼にも「負けず嫌い」な部分があったのだ。「でも、かっこよく演りたい」という発言を何回も口にしている。その気持ちが彼を支配しつつあるのか、今日は「ギターやりたくない」というまるで後向きなメールをわたしに送りつけておきながら、心配で大急ぎでわたしが帰宅した時には、ノリノリでギターの練習をしていた。それも歌いながら。部活からの帰宅が遅くなったので、選抜じゃない方の週一の普段のダンスレッスンは休んでしまったものの、就寝前には非常に入念に柔軟体操をしていた。

 パーッと吹っ切れたかと思ったら、また闇の中に分け入ってしまい、さまよっている中で再び、一筋の光明を見つけ出して…きっとそんな繰り返しの中で、Wは大きな苦しいと楽しいを自力で獲得しながら、グイグイと大きくなっていくのであろう。なんだかとっても羨ましい。Nからよく「母はもっとWをほっとけば!」とたしなめられる。ごもっとも。手も口も一切出さないことも、出すことを死にもの狂いで我慢することも、子を育むためには必要な時がある。Wは今、自分の足で歩いていくための猛特訓を受けているのだな。それを肝に銘じるのは、わたし自身にとっても試練なのである。
 わたしが今Wに提供できるのは、おいしいご飯と、たくさんの笑いと、いっぱい話したくなる空気。多分それだけで充分。わたしも、Wの歩みと共に、強く大きなヒトになっていこう。

 で。Wは、本当はドラムがやりたいのです。Y先生、どうかひとつよろしくお願いします…

5.05.2008

もう一人のお母さん②

 「会いに行く」とこころに決めたものの、その直後に全く不本意な形で会社をクビになったり、Nがドイツに旅立ったりWが御蔵島にイルカに会いに行ったり…と、収入はないのに出費ばかりがかさみ、資金繰りのメドが全然つかず、「遊びに行くよ!」というセリフを噛み殺しながら、ママとメールのやりとりを続けていた。
 ママとさよならをして19年という時間が経過した。その時間の中で、ママもわたしも、辛い思いや悲しい思いを存分に味わい、わたしはママからのメールに度々涙し、また、わたしのメールを読みつつ涙しているママの姿を想像することは難しくはなかった。
 Nがドイツへ行くための航空チケットを手に入れる際、担当のお姉さんに、何気なく「来年の4月くらいの米国往復チケットって、いつぐらいから出てきますか?」と尋ねていた。ゴールデンウィーク前の4月辺りにチケットが安いというのは、前回の渡米の際に経験として知り得ていたのだ。お姉さんに尋ねることで、自分の再渡米が4月なんだ、ということを自らに言い聞かせ決意を頑丈にする結果となった。お姉さんの話では、年明けからぼちぼちと…ということだった。働くぞ!と当時無職だったわたしは、にわかに意欲を燃やした。
 その後仕事に就けたのだが、ネコたちのこともあり、お金は流出していくのみ。財布の中身はいつも、渡米への絶望を主張していたのだが、わたしの精神はあまりへこたれることはなかった。「行く」とこころさえ決まれば、今現在手元に資金がないことさえも、なぜか不安要素にはなりえなかったのだ。
 年を越して、今年に入ってから、ウェブで日米間の航空チケットの相場をチェックするようになった。具体的に「最低〇円かかる」という情報を仕入れることは、更に刺激になった。そして。ママに会いに行くんだ!という思いが全くゆるぎのないものになった2月のある日、わたしはとうとうママに、「会いに行くよ」とメールで宣言することができたのだ。
 もちろん、ママの返答は喜びと嬉しさに満ちていた。ありったけの言葉を使って、大きな驚きと歓迎の気持ちをわたしにぶつけてきてくれた。そこに、19年の時の隔たりは微塵もなく、あの時あのままのママがメールの向こうにいた。