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12.31.2008

そろそろ

 2008年も終わり。人並みに感慨深げな気分に。振り返ってみたくなる。
 今年はこころの底から、「健康って偉大だ」と思わずにいられなかった。そういえば昨年の丁度今頃は、自分が膀胱炎になってしまい、まさにこの時間は、後にWが入院した病院の救急外来に駆け込んでいたのだ。病院帰りの車中から見た、某ねずみーらんどで打ち上がっている年明け花火がきれいだったなぁ…。その膀胱炎、治りが非常に悪く、結局2月に入ってやっと完治したのだった。Wのことも言わずもがな、とにかくも、体が元気であるというのは、感謝の対象になりうるのだなと、恥ずかしながらこの年齢になって本気で思えるようになったのだった。
 このブログというツールを使っての、あれこれ文章書き殴りも、年頭から開始した。こころの中で膨らんでいる様々な思いを書き付けていく作業というのは、楽しい半分苦しい半分だった。思いを文章にするという行為は自分にとって、その思いを整理する行為なんだということも改めてわかった。なので、文章にしていない「思い」たちは未だぐしゃっとしていて、グズグズドロドロのままわたしの中で燻っているのだ。行く行くは整理できればいいのだが、と淡い期待を来年に持ち越してみる。
 2007年末から引き続き、ネコたちにも大いに振り回された。なんだかんだで、結局我が家に生息するネコどもは現在6匹。ぎうにうがなかなか里子に出れず、去勢もできておらず。ハハも、うまくいけば里親みつかるかもな、とNと僅かに期待をしていたのだが、どうやらこいつは目が悪いようなので(医者にみてもらったわけではないが)気軽に里親募集をかけられずじまい。「あー。うちの子になっちゃうのかね…」とNもわたしももうやる気ゼロの諦めモード。はぁ。いっそのことネコカフェでも開いちまうか。え。あ。無理か。ネコカフェ訪れるヒトビトって、癒されるのが目的だったな。そうだ。そういえばうちの子たち、ニンゲンを癒す能力皆無だったわ、ぐはははは。
 Wのお供をしつつ、キッズダンスに大ハマリしてしまったのも2008。今わたしのケータイ待受け画面はウェブ上で拾ってきたNちゃんのしゃ・し・ん!いやぁ。先日新木場であったイベントに、このNちゃん見たいがためにN、W引き連れて参ってきたのだが。なんとNちゃんチームは見事バトルで優勝!結果が発表された瞬間、全くカンケーないわれわれが思わず「きゃーーーーーーー!!!!」という歓声。Nちゃん関係者らからすれば、何あいつら的な感じだったろうと思われるところだが、いやいや、嬉しいものは嬉しい。帰り際には我慢できずにNちゃんのお母様らしきヒトにお声をかけてしまった。でもって、この日はまったくもってNちゃんのみが目的で会場に行ったのだが、入場のために列に並んでいたら…あ!え!あれAPE☆MENじゃん!とか、え、え、え、え、え、あの子M3 Mstyleのお兄ちゃんだよね、うわうわ、あの衣装パンツライダーじゃねーーかよーーー!とにわかキッズダンスファンの我々は、萌えに萌えまくらざるをえない光景をいくつも目にしてしまったのだった。あぁぁぁあ、しーあーわーせー………なんというか、またもやWがきっかけでとてつもなくマニアックな世界にはまり込んでしまい、Wには「ありがとう」とか「このやろう」とか複雑な感情を抱いている。

 あぁ。年越える前にアップロードしなきゃ。

12.30.2008

12/13にあったコンテスト

 2度目のコンテストチャレンジ。結果は残念でしたが、彼女たちは本当に楽しそうで、キラキラ輝いておりまぶしいくらいだった。彼女たちのお母さんたちとも初めてたくさんお話したのだが、皆さんWの体のことを非常に心配してくれていたようで、なんとも言えないうれしい気持ちになった。当のWは、前回上げた動画の時よりはイキイキとした動きを見せてくれた。ちょっと胸をなでおろす。だってさー、コンテストよコンテスト。足引っ張ったらやじゃん。












 

コンテスト終了後、解散前のショット。美女に囲まれ幸せW。



その後、W③

 Wについて、スキップしていた部分を詳しく。
 
 Wは10/4に退院した。
 担当の先生の説明によると、各種検査の結果、本来ならば逆流してはいけないパーツ(腎臓から膀胱に伸びている尿管という部位)で、Wの尿は膀胱から腎臓へ逆流しているらしい。逆流が腎臓の炎症の原因になっていたのではということ。そして、逆流箇所からつながっている左側の腎臓は僅かに欠損していた。
 先生の説明をわたしと共に聞いていたWはみるみる顔色が悪くなり、先に部屋に戻り、あろうことかおいおい泣いていた。かわいそうに。しばしわたしも一緒に泣いた。
 退院は、炎症が完全に治まったからできたということであり、根本的な解決はまだなされてはいなかったのだ。入院中に認められたそれぞれの問題症状は、今回の「炎症」にのみ起因していた可能性も否めないということ。腎臓の欠損は今回の炎症で少しばかり傷付いてしまっただけかもしれない、尿の逆流はやはり今回の炎症の後遺症として残っているだけかもしれない…なので、完全に「炎症が無い」状態でのこれらの臓器の撮影が必要となり、そこで同じ症状が認められたら、小児外科を受診することを勧める、と丁寧に説明された。
 
 そして、その再検査が先日、25日にあった。
 
 結果は、入院時と何も変わらず。腎臓は欠けており、逆流も認められた。小児外科のある都内の病院の受診を、年明け早々の9日に予約した。紹介状を書いてもらい、腎シンチの写真と膀胱造影の写真を手渡され、受診の際それらを小児外科の先生に見てもらうよう言われた。
 K先生(女、かわいい)の適切なわかりやすい説明とWへの優しい激励とで、病院内ではそんなに意識できなかったのだが、相当ショックだった。覚悟はしていたはずなのだが、非常にショックだった。溢れそうになる涙を何度も堪えた。その日はクリスマス。街全体が浮ついて華やかで、キラキラしているのに、Wは丸一日病院にカンヅメで非常に痛い検査をされ、挙げ句、結果は喜ばしいものではなかったのだ。どうしてこんなにいい子がこんな目にあわなきゃならないのか。苦しまなきゃならないのか。あまりにも理不尽な出来事のように感じ、怒りさえ覚えた。
 と同時に、自らを責める感情もフツフツと湧いてきた。仮に腎臓の欠損が先天的なものだとしたら、きちんと生んであげられなかった自分が悪いのではないか、とか。4年前の原因不明の高熱時にどうして大きな病院に連れて行かなかったのか、とか。記憶は薄れているが4年前以外にも一度くらいやはり単なる風邪にまつわるものとは思えない高熱を出していたかもしれない。どうして、放っておいたのか…等等、基本属性「自虐」に籍を置くこのわたしが、自分を責めずにいられるわけがない。
 でも。当然だが、そんなことでWの諸症状が消え去るわけではないのだ。あたりまえ。もう誰がなんと言おうと、前を見て毅然と歩いていくしかないのだ。「病気」という事実に「こころ」が負けてはだめなのだ。
 
 帰り道、Wにかけられた言葉。「まぁ、そんなに落ち込むな」と。だよな。一番辛いのはおまえだよな。すまぬすまぬ。この闘い、まだまだ先が見えない遠い道のりになりそうだが、わたしも精一杯努力していくよ。おまえがやりたいことを全うしてしていけるように、わたしも最善を尽くしていくよ。

11.30.2008

その後、W復活編

 やっとこの日がやってきた。再びステージの上に立つ日。
 苦しい日々は、それに挑んだりあがいたりしながら、気が狂いそうになりながらじっと耐えていけば、ある日突然、嵐が去った気持ちの良い青空を必ず見せてくれるのだな。時間が経つというのは、偉大なことなんだな。
 ハハも鳴きやんだし、ミケの避妊も終わったし、ぎうにうもすっかり人馴れして、Nはドイツ語検定受けて、わたしは残業の日々。フツーの生活ばんざい。






10.18.2008

その後、W②

 翌日から確実に、仕事→病院→うち、という怒涛の日々が始まった。
 Wの熱は点滴治療のお陰で翌々日にはかなり下がっていた。しかしまだまだ点滴は続く。ある程度熱が下がったWは今度は退屈と戦わねばならなかった。もちろんこのわたしも。この期に及んでも、テレビ嫌いは健在で絶対テレビは見せたくなく、ならばとポータブルのDVDプレイヤーを購入、DVDも何本か手に入れた。そして、マンガ。最近(わたしが)はまっているギャグマンガをずらりとオトナ買い。でもないか。何度かに分けて買った。だって持っていくの重いから。結局13巻まで揃えた。でもって何故かコンプリートしていない不思議。あと数冊なのにな。
 熱が下がって身体状態が落ち着いてくると、わたし自身にあれこれ欲がでてきてしまった。「いつダンスに復活できるのか」…。10月から11月にかけては、彼の所属するチームはイベントラッシュなのだった。4月から着々とレッスンを積んできて、ようやくたくさん人前で披露できる!という矢先の病気だったのだ。ただし、そんなことは先生には絶対尋ねられなかった。とにかく治ってもらいたいという基本的な希望からは、非常にかけ離れた浅ましい醜い思いのような気がして、そんなことを思ってしまう自分がイヤでイヤで仕方なかった。Wはここでもひたすらマイペースで、「焦ってもしょうーがねーじゃん」くらいのことを彼に言われた。自分の度量の狭さにほとほと嫌気がさした。
 とても不思議なのが、入院していた約2週間のことをわたし自身あまり記憶に留めていないということだ。点滴が外れた日のこと、苦しい検査があった日のこと、そういう特別な日のことは覚えているのだが。毎日、朝起きて仕事に行って、早めに切り上げて病院に向かって、消灯時間とともにうちに向かいつつ買い物をして、帰宅して夕飯食べながら洗濯して、風呂入って寝る→朝起きて…の繰り返しを永遠に続けていただけのような気がする。もちろん、その繰り返しの中でも、元気のある日もあったしない日もあった。励ますのに疲れた日もあった。Wと一緒に泣いた日もあった。病院から乗るバスの中ではいつも涙が溢れて仕方がなかった。そんな「気持ち」の大きな変動が存在したにも関わらず、具体的には思い出せないのだ。ただし、一つ。Wが入院してから、再び現れた大きなわたしの宿題。

「生きるって、なに?」

 繰り返される日々の中で、これだけがズンズンと大きく立ちふさがっていたということは、しっかりと記憶に留まっている。

 CT検査、腎シンチグラフィ、膀胱造影、という滅多には受けられない検査の数々。そして三日に一度くらいペースの血液検査。その結果、Wの病気は「上部尿路感染症」の一部である「巣状細菌性腎炎」という診断が下った。
 

その後、W①

 9/18の夕方、40℃以上の高熱を出したWを連れて救急外来へ。高熱以外に際立った症状はなにもない。鼻も出ない咳もでない。喉も痛がらない。熱の高さの割りに意識がはっきりしており、食欲もそこそこあり水分も自ら摂れる。実を言うと、4年前の夏にも同じような高熱に見舞われたことがある。その時は近所の小児科へ行ったのだが、医者は首を傾げながら「きっと夏風邪の一種でしょうね」と診断、抗生剤を処方されてお終いだった。抗生剤が効いたのか、徐々に熱が下がり、きちんと回復に向かい、それはそれでわたしの記憶の中でも「お終い」になっていた。しかし再びその記憶が甦り、近所の医者では埒が明かないと瞬間的に感じ、救急ではあるが大きな信頼のおける病院へ連れていくことを決断した。問診、聴診、触診と一通り診察を受け、尿検査血液検査の必要性を医者に伝えられる。そして、早々に点滴に繋がれることに。「やっぱりただの風邪じゃないんだ」…4年前の高熱の際の釈然としない診断、その時と全く同じ症状で苦しむW、目の前にある事実と4年前の光景とが頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、胸が潰されるようななんとも言えない不安な気持ちでいっぱいになった。
 点滴を受けながら体を冷やしながら、うなされるW。うなされながら思わず「母さん、オレ死なないよね」と。「殺さない。わたしが絶対殺すもんか」とわたし。しかし、(その時点ではまだ)原因の定かではない熱に侵されながら、うなされ、瞼を痙攣させ、時折笑みを浮かべたりするWの様子を凝視していると、本気で死んでしまうんじゃないか、と正直たまらなく怖かった。
 血液検査を元に、即入院を告げられる。腎臓での炎症が疑われるとのこと。先生は丁寧に優しくいろいろとわたしとWに説明してくれるのだが、頷きながらも、脳に全くそれらの説明が届いていっていないことがわかった。「どうして」とか「治るのか」とか、あまりにも感情的な思いばかりが占拠してしまっていたからだ。心理的にとても救われたのが、担当の先生(男・若い)がとても優しい先生で、熱で苦しむWの頭や頬を何度も何度も撫でてくれたこと。直接言葉にこそしなかったが「大丈夫だからね」とWに語りかけてくれているようで本当に安心できた。
 その場で腎臓をエコーで診る。翌日にCTを撮りもっと詳しく腎臓を診るということ、このまま点滴治療を続行する旨を伝えられた。そしてその後、入院の手続きをしてそのまま病室へ向かった。
 …ざっと18日の夕方からのことを振り返ってみたのだが、Wと救急外来に到着してわたしが病院をあとにするまで、実に6時間も経過していたのだった。

 病院までの足になってくれて、この6時間の間同じように不安な気持ちを抱きながらずっと待っていてくれたH氏。本当にありがとう。もっとも、帰り道、「よーし、なんか食って元気だそうぜ!」と走っている途中に見事にパンクしてしまったのは呆れてしまったが…今やそれさえただの『ネタ』になってしまうのは間違いなくあなたのお陰だ。

9.20.2008

W

 まさかまさかの入院。高熱(40度超え)で救急外来で診察してもらったら、そのまま入院になった。木曜の夜に入院し、未だ原因がはっきりわからず。
 これから病院に行ってくる。

9.13.2008

この夏

 我が家に大量発生した、死体の数々。なーんて。乙一読みすぎ。












 木曜日にハハが退院してきた。のちほどまた詳細を詳しく。今日は死体のみ。つかこの死体、最近キャラが際立っており、わたし的には死体…もとい、Taceブーム到来。見えざる敵と常に戦っておるし(自称勇者だから)、そのくせデレデレで、ついこの間「にゃあ」と鳴けるようになったし。以前は「くぅぅぅうぅぅーーー」としか鳴けなかった。ひそかに練習を重ねておったらしい。「オレだってネコなんだかんな」という彼の負けず嫌い魂が功を奏したようだ。…そうなのか?ともかく、相変わらずヘタレっぷり惜しみなく全開、ハハにも面と向かって「シャーーーー!」と威嚇できず「なおぉぉぉん」と一鳴きして大急ぎで撤収。なくせに、「オレ、やっつけたかんね。オレは勇者だからね」と得意げな面持ち。かわいいし。

9.09.2008

日曜の夜

 とうとうハハを捕獲した。彼女の子であるとかたとぎうにうを捕獲した際とは大違いだ。もっとも、とかたぎうにう捕獲の折に一番の障害となったのは、なにを隠そうこのハハだったのだが。ちなみに、とかたは無事、信頼のおける里親さんがみつかりそのお宅に引越した。どうしているかな。もう少ししたら、大きくなったとかたに会いにいきたい。ちなみのちなみに、とかた、今現在の名は「なると」である。

 Nがいつの間にか捕獲器を借りてきていたのだ。なんと。ハハとミケを捕まえる気満々である。わたしも、ずっとずっと、あの二人を、特にハハには思いいれも強かったので、早く捕まえたいと漠然とは考えていた。まさかこんなにも早くこの日がこようとは。

 土曜の夜、ダメ元で、うちのマンションの駐車場でハハもしくはミケをNと二人待っていた。Nの予想ではミケが現れるのではと見込まれていた。何故なら、とかたぎうにうを捕獲した翌々日くらいから、わたしたちは全くハハを路上で見かけることがなかったからだ。NSさんからは、ハハは元気に生きているという報告を受けてはいた。が、われわれは全く会えなかったのだ。

 そして。駐車場にひらりと飛び込んできたのは、なんとなんと、ハハだったのだ。あまりにも突然すぎで、そして久しぶり過ぎで、そして現れ方が妙にコミカルで、Nと二人顔を見合わせて笑ってしまった。

 捕獲器を準備する。子らを捕まえた時より心なしか表情が柔らかくなっている。腹がでかい。あぁ。既に子どもがいるかもしれない。いろんなことを考えながら捕獲器を設置し、5分と待たないうちにハハは捕獲器の中の餌に向かって行った。なんて順調なんだ。彼女は捕獲器の奥に更に進む。よし、そのまま進め。…だが。もう一歩、という場所に彼女は留まり、器用に罠の丁度真上の餌をむしゃむしゃ食べているのだ。あーーーー。歯がゆい。ある程度餌を食べきったハハは、捕獲器から退出してきてしまった。あぁぁぁぁあーーーーー。中に入ったのに!中に入ったのに捕まらないって一体どういうことなのかしら!とても悔しかったのだけど、素直に「本日はハハの勝ち」を受け入れて、撤収した。



 翌日日曜の同じ時間同じ場所。遅くに帰宅したので、駐車場でそのままNと合流。わたしの顔をみるなり「ハハきてるハハきてる」と。おぉ。毎日この時間にあなたはここに立ち寄っていたのね。急いで捕獲器をセット。車の下にもぐりこんでしまいなかなか出てこないので、わたしは一旦うちに戻ろうと思いNに託して、マンションの階段を登っていると、階下に車の下からのっそり出てきたハハの姿が見えた。捕獲器に足は向いている。よし、その調子。階段の踊り場でそのまま眺める。ドキドキする。そして、捕獲器の入り口扉が閉まる「ガシャン」という大きな音に、心臓の高鳴りは最高潮に達した。捕まった!とうとうハハが捕まってくれた!大急ぎで階段を駆け下りる。ハハはしばし捕獲器の中であたふたし、すぐにおとなしくなった。きれいな子。こんなに近くで凝視するのは初めて。小さくてきれいな子。この小さな体で、よく3回も出産子育てを経てきたね。頑張ったね。本当によく頑張った。ごめんね。あなただけ頑張らせて本当にごめんなさい。もうさ、うちの中でのんびり過ごそうよ。もうさ、あなたを外で頑張らせるのイヤなんだ。悲しくてイヤなんだ。

 な感じで、「ハハを地域猫へ計画」は即座に白紙撤回。



 昨日、ハハはNに連れられて病院に入った。明日かあさってには帰ってくる予定。早く会いたい。




8.26.2008

あれこれあったのだが。

 一ヶ月ばかり書き付けることを怠っていた間に、あれやこれやもう書ききれないほど様々なことが起こったり起こしたりの只中で生存していた。でもって、面倒なので再び動画アップでごまかしてみる。





 先日、Wの所属するダンスチームがやっとこさ観衆前でのデビューを果たした。すごいでしょ。かっこいいでしょ。でも、パフォーマンス後のコーチの口からはダメ出ししかでてこなかった。「揃ってないと意味ないです」「正直これがコンテストでなくて良かったと思っています」等々。そうだった。このチームは仲良しこよしでダンスを楽しむ集団ではなくて、本気で最高の作品を作り上げていくことが目標のチームだった。Wの姿を確認できるであろうか。たくさんのかわいい女の子に囲まれて幸せそうな表情いっぱいの奴が。なわけはないな。彼は、この化け物みたいに上手いおねーちゃんたちに囲まれて常にいっぱいいっぱいなのだ。更に、途中かっ飛ばしすぎて、息切れしておもっくそ手抜きダンスを披露してしまっている。親としては、この環境の中でよくぞ踏ん張ってやっているなぁというのが、奇譚のない思いだ。

7.27.2008

退院した


左がぎうにう、右がとかた。
ぎうにうはどうやら、Taceと同じハァハァ族。ヘタレの証。

7.26.2008

7/23のこと




 こんな掲示をされてしまったので、こうした。


『マンション管理事務局及び住民の皆様へ』

マンション一階の掲示スペースに、野良猫の親子の事が書かれていたのを拝見させていただきました。
恐らく、餌をやっていた住民といいますのは私のことかと思いまして、不快な思いをさせてしまった事のお詫びと、その後の経過についてのお話をさせていただきたく、このような文書を配布いたしました。

野良猫の親子は以前よりこのマンションに住み着いておりまして、我が家で保護し、里親を探すことを考えていました、ですが野良猫、と言うわけで警戒心が強く、なかなか捕まえる事が困難で、ならば餌をあげて馴らしていこう、という思いから、二週間ほどマンションの駐輪場において餌をあげさせていただきました、餌の残りは片付けたつもりでしたが、残っていまして住民の方々に不快な思いをさせてしまったのならお詫び申し上げます。
ですが、先日、母猫は逃がしてしまいましたが仔猫を二匹とも捕獲することができましたので、もうこのマンションに来ることは無いと思います。猫も生き物ですし、お腹も空くでしょうから、しばしこのマンションに母猫が現れるかもしれませんが、そこはどうか目をつぶってあげていただきたいと思います。母猫は、以前からこのマンションに来ていた様子ですので、恐らくここの住民ではない方が、この界隈で餌をやっていたものと思います。
一階にお住まいの方で庭に糞をされていたり、鉢植えを倒された、などの被害がありましたら、当方で片付け、お詫びをいたしますので、ポストにお手紙を入れていただくか、直接インターホンを鳴らしていただければすぐに対応いたします。

この界隈には野良猫が多くいますので、一匹一匹慎重に保護し、避妊・去勢手術などをし、徐々に数を減らしていこうという活動をしています。
このマンションでの餌やりは、仔猫がつかまりましたのでもう致しません。
ご理解の程よろしくお願いします。
現在確認できているだけで、三毛猫の親子、白黒の大柄のオス猫がこの辺りを縄張りとしています、猫は餌があってもなくても、縄張りは変えない生き物ですので、その猫たちに関しましても、何か問題を起こしているようでしたら当方で相談にのり、お詫びいたします。猫の習性などをご理解いただけると嬉しいです。納得できない点などがありましたら、十分に時間をとってお話し合いさせていただきたいと思います。

この度はご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。
○○号室 Y・N




『マンション管理事務局及びマンションにお住まいの皆様へ』

ネコたちにご飯をあげていた者です。○○号室のY・Aと申します。
この度は、住民の皆様に不快な思いをさせてしまったこと、そして管理者の方にはご迷惑をおかけしてしまったこと、深く深くお詫びいたします。
ただ、一点ご理解いただきたいことがございます。わたしと娘Nが、「かわいそうだから」という感情だけの結果として、ネコたちにご飯をあげていたわけではないということです。確固たる目的のためであったということです。その説明を誰にも差し上げずに、このような行動をとってしまったことは、浅はかだったというしかありません。全くもって手前どもの落ち度です。申し訳ありません。
『目的』、というのは、この親子ネコを保護し、去勢・避妊の手術に出すということでした。覚えていらっしゃる方もおられるかと思いますが、昨年の夏もこの「母ネコ」がこのマンションの敷地内で子育てをしていました。今回子育てをしている子ネコたちは、実はこの「母ネコ」の3代目の子どもたちです。これだけでおわかりいただけるかと思いますが、ネコは凄い勢いで増えていきます。ご飯をあげなければ、ゴミ置き場も荒らされます。現に、7/18(金)の夜、この「母ネコ」の2代目の子どもである三毛柄のネコが、ゴミ置き場で食事をしていました。ゴミ袋には大きな穴が開けられ、中が出されていました。わたしはうちからネコのフードを持ってき、その三毛にご飯をあげました。彼女はお腹がいっぱいになるとどこかへ行ってしまいました。ちなみにこの三毛も子どもを生んでおり、このマンションの目の前の建物内で子育てをしているようです。ちらかされたゴミはきちんと片付けさせていただきました。ご飯を食べていれば、ゴミは荒らさないということ。そして、この子たちに避妊・去勢の手術をしないと、果てしなく増えていってしまうということ。どうかこの2点をお心に留めいただきたいと切に願います。そしてもう一つ付け加えるならば、彼らネコというのは、例えご飯をあげなくなったとしても、そのテリトリーをかえることはしないという特性も是非ともお知りおきいただきたい点です。
そして、去勢・避妊に出すためには、彼らを捕まえなければなりません。捕まえるためには、ご飯をあげるという行為を通して、彼らにわれわれを認知してもらわなければならないのです。ネコは、特に外で自分たちだけで生きているネコたちはおしなべて、非常に警戒心が強いです。そう易々とは捕まってはくれないものです。なので、捕獲するためにご飯をあげざるを得ないのです。
7/18(金)の夕方に、この「母ネコ」の子どもたち二人を、地域ネコボランティアさんの元、無事捕獲しました。「母ネコ」を捕まえられなかったのはとても残念なのですが、まだこの辺りにいるとは思いますので、もし見かけた方がいらっしゃいましたら一声かけていただけますと、非常に嬉しいです。
今後われわれとしましては、前述の三毛の子、そして白黒柄の男の子ネコ、そして「母ネコ」の捕獲→避妊・去勢を考えております。つきましては、その子たちに今後また、上記のような理由でご飯をあげなければならないかと予測はされます。ご理解いただきたいのは山々なのですが、ネコがお嫌いな方もいらっしゃると思いますし(わたしもそうでした)その子たちの糞や尿でおうちの周囲を汚されている方もいらっしゃるかと思います。極力皆様にはご迷惑をおかけせぬよう進めて参ります。また、糞や尿に関しましては、ご一報いただければわたくしか娘が片付けにまいりますのでお声をかけていただければ幸いです。

ネコといえども、わたしたちと同じくこの地球に存在しているかけがえのない「いのち」です。わたしたち、ニンゲンとどうすればうまく共存していくことができるのか。頭の中を駆け巡るのはそのことばかりです。地域ネコ活動をされているある方が、ネコ問題は引いては環境問題だとおっしゃっていました。全くその通りだと、われわれは考えております。しばらく前には、ネコの餌やりが原因でアパートの住人と大家さんの間で殺人事件もおきていました。非常に胸が痛みます。そういうことも含めて、もしご必要でありましたら、きちんと皆様の面前でお話をさせていただきたいと考えています。

しかしながら、この度は、これらの説明を全て端折って我見のみで行動したことに対しては、果てしなく無責任だったと感じ、深く反省しております。
申し訳ありませんでした。



2008年7月23日
Y・A

7.24.2008

そして、ネコ再び③



 順を追って全て丁寧にここに残していこうと考えていたのだけど、この2週間であまりにもいろんなことがありすぎて、それら全てを書き留めるのが、恥ずかしながら面倒になってしまった。結論のみ言うと、7/18(金)の夕方、ボランティアのHさんのお力添えで、ハハの子二人、無事捕まえた。残念ながらハハは捕まえられなかった。二人の子は現在、検査を伴う入院中。二人とも元気だそうだ。
 名前しりとりをシリーズ化していきたくて、一人の子をToccata、もう一人をTenutoと名づけてみたものの、Toccataはわたくし個人的に呼び辛く、いつも略して「とかた」と呼んでおりそれが定着。Tenutoに至っては、普段ビビリでわたしたちの半径1.5m以内には近づけないくせに、一度ネコ用ミルクを差し出したらビビリつつも食い気には勝てず、1.5mの結界を飛び越えてわたしたちに近づいてきた…という経緯が元手となり、「ぎうにう(ぎゅうにゅう)」と今では呼ばれている。ボランティアのHさんまで電話口で「ぎゅうにゅうちゃんはね…」と様子を伝えてくれていたらしい。
 ハハは。その後2日間、はわたしたちが活動している時間帯に近所に姿を現してくれ、ご飯をあげることができていたのだが、残念ながらそれからは彼女の姿をわたしとNは目撃していない。NSさんからの情報によると、早朝4時くらいにこのマンションの程近い餌場には姿を現しているようだ。それを聞いてNと共に胸をなでおろす。ハハは。二人の子を一気に手元から不本意になくしてしまって、どんな気持ちになったのだろう。悲しかったのか。苦しかったのか。わたしたちを恨んだか。それら全てだったか。いずれにせよ、その気持ちを想像すると、胸が苦しくなり涙がこぼれてくる。子どもらは家ネコとして、絶対幸せにする。約束する。そしてあなたも。避妊を受けて、妊娠出産がもたらす様々な苦痛やストレスから解放されようよ。そしてもし、居心地を気に入ってくれるなら、うちにきてもらってもいいから。だからお願い。もう一度わたしたちの目の前に姿を見せて。

 おとといの朝。何やらTaceの様子がおかしい。普段滅多に鳴かない子なのに、あらん限りの声で鳴き喚いている。そして、口を開けてベロを出して、犬さながらでハァハァと荒い息をしているのだ。どうしたんだろう。心配しつつも、会社へ。この日は、NもバイトWも部活で日中うちに誰もいない。それをわかりつつうちを後にして、職場でネコの病気をあれこれ調べたり、ネコと同居しているKさんにTaceの様子を聞いてもらったりしていたら、雪だるま式に不安がどーんと積もってしまい、居ても立ってもいられなくなり、大慌てで早退してうちに帰ってきた。うちに戻ると、Taceのハァハァは治まっており一安心。しかしながら、心配は拭えないので病院に連れて行った。幸い、Taceは心臓も呼吸器も、聴診で異常は見られず、先生の診断では「興奮による一種の発作のようなもの」というものだった。今後も起こりうるらしいが、頻発しなければ問題ない、と。一番良いのは安静だ、と。安静ね。安静。…できんのか?あいつが?その夜、いーーーーーちばんテンション上げ上げで夜の運動会張り切りまくっていたのは、安静を言い渡されたTaceだった。

 そんなこんなで、うちのネコたちのこともちったァ心配しろ、という目に見えぬ誰かからのお告げだったのだろうか。病院から帰って急いでペットショップに参じ、冷んやりマット4人分と、今までうちの中では食させたことがない缶詰ご飯を買い、ネコたちだけだとMusicaがあまりにも不憫だからとMusicaの缶詰も買い、ここ最近の、逼迫した我が家の家計の中では度し難いほどの散財をしてしまった。

 ネコバカ、万歳。



7.07.2008

さくじつ

 貪欲と野心的についての、シンプルかつ的確な指摘を引用した。訂正しておかなければならないのは、わたしがスピノザを読んでこの一節をみつけたわけではないということ。エーリッヒフロムの『生きるということ』という本を読んでいるなかで出会ったもの。引用されているものを引用したに過ぎない。この『生きるということ』という書物。わたしの蔵書棚にひっそりと隠れていた。そこにいたのは、ずーっと知っていた。が、果たして自分が読了したのかどうかも忘れてしまっていた。久々にその埃まみれの本を開いてみると、やはり読んだ記憶が残っていない。本はとにかくたくさん持っているが、全てを読了しているわけではないので、こういう事態はよくある。目に飛び込んできた「目次」たちが非常に魅力的だったので、すぐに読み始めた。
 原題は『TO HAVE OR TO BE?』。おそらく、こちらのタイトルの方がすんなり体に染み込んでくる。読み進めれば進めるほど、しっくりくる。フロムはドイツ人社会学者。この著書はまるで哲学書を彷彿とさせるタイトルであるし、内容も相当に哲学。キリストもシュバイツァーも仏陀もフロイトもソクラテスもマルクスもエックハルトも、なんだかみんなみんな登場してくる。わくわくする。でもあくまでも、社会学者の書物なので、それらの思想をお披露目してお終いでは決してない。きちんと社会学的アプローチでもって世界を俯瞰し、問題点の改善方法など具体案が盛り込まれている。
 読んでいくなかで、ところどころ、ページの端が三角に折られていることに気付く。よく通販雑誌などを眺めている時に、「欲しいな」と思った商品の掲載されているページを後で見つけやすくするためにやってしまいがちな、あんな方法で。んーー。この本読んだことあるのかな。でも、全く憶えていない。ところが、更に読み込んでいくうちに、「わたし、これ絶対読んだ!ええ、読みましたとも!」と認識しないでいられないことに遭遇する。
 わたしは読書するときに、ページの端を折ったり、あげく気に入った箇所にはラインを引く癖がある。Nからは、そういう読み方を軽蔑されるのだが。仕方ないじゃないか。というか、わたしの本なんだから好きにしていいじゃないか。そういう行為に至るのは、わたしのその「本」への愛情の印なのだから。でもって、見つけてしまった。線を引っ張ってる箇所を。かなり若い頃に読んだのだろう。そしてその後のわたしの人生に、大いに影響しているはずだ。

『出産の苦しみのすべてが女のものであることを考えると、家父長制社会で子供を作ることが女に対する露骨な搾取という問題であることは、ほとんど否定できない』

 上記の部分で、水色の蛍光ペンのラインを見つけた。その線はもう微かにしか見えないほどに色褪せている。

 これを発見した時は、思わず吹き出した。おかしかった。「若かった自分、ウケる」と思った。

 まだ読み終わっていないのだが、現代社会、持っては消費して…のこの社会がいかに病んでいるかを実感してならない。「持つ様式」でしか生きていけないヒトビトが、いかにそれがいわゆるフツーのヒトビトだとしても、もはやわたしの目には「異常者」にしか映らなくなっている。やべぇ。

7.06.2008

うぅ…

もし貪欲な人物が金と所有物のことばかり考え、野心的な人物が名声のことばかり考えたとしても、人は彼らを精神異常とは考えず、ただ不愉快に思うだけである。概して人は彼らを軽蔑する。しかし、実際には、貪欲や野心などは精神異常の形態なのである。ふつうは人はそれらを<病気>とは考えないけれども。

スピノザ『エチカ』より

そして、ネコ再び②

 仕事から帰りマンション敷地内に入ると、10mほど先の駐輪場に座り込んでいるNが見えた。「あー。来てるんだ」。Nに確認することもなく、わたしはハハが来ていることを確信した。急いで近付く。するとわたしに気付いたNが少し興奮気味に「ね、子ネコ、子ネコ、すげーかわいい。一人はわたしの手から直接餌食べてくれた。もひとりはビビリで近付いてくれない、ほらほらほら」とまくし立てた。いつもは冷静なNが大はしゃぎしてしまうのも仕方ない。なぜなら、Nとわたしは、数日間ずっとこの親子を探し求めていたのだから。おまけに、親子揃って現われてくれたのだ。これで、ハハが再び『母』になっているという事実もはっきりしたのだし。
 子ネコは二人。二人、模様がよく似ている。だが、性格はまるで逆。Nが言った通り、一人は非常に活発で好奇心の塊で臆せずどんどん寄ってくるが、もう一人はビビリまくって、いろんなことに興味津津なのだが全てにおいて一歩前に踏み出せないでいる感じが伝わる。かわいい。かわいい。こどもたちの後方にいるハハは、わたしたちに向かってずっと威嚇音を発している。なんて素晴らしい母親っぷり。しばし見とれていた。そして思い立って、部屋からネコご飯を少し持ってきた。予想外に、子ネコたちがよく食べる食べる!こちらの思惑としては、ハハにたくさん食べてもらい滋養にしてもらいと考えていたのだが。
 そこを一人のマンションの住人が通り掛かった。その方はねこたちを見て、ほとんど感激に近い声をあげた。「あらー!あなたたち、元気だったのね!よかった!よかった!」と大いに喜び始めたのだ。よくよくその方から話を聞くと、6月に入ってから、一階にあるその方、Yさんの部屋の庭に、ハハが姿を現すようになっていたらしい。かわいらしいこどもたちを3人引き連れて。…はて。3人。…そう。もう1人いたのだ。ある日を境に、2人しか来なくなり、おまけにYさんのお宅で飼っているねこが、ハハたちを脅かしてしまったらしく、以来全員姿をくらましてしまい、Yさんはひどく心配していたそうだ。再会できて嬉しそうにしているYさんを見ていたら、こちらまで幸せな気持ちになった。
 集合住宅の敷地内で、家なきねこたちにご飯をあげるという行為は、たとえそれが善意であったとしても、様々に問題を引き起こしてしまう可能性をはらんでいる。なので、マンション内にYさんのような方がいるという事実を知ることができたのは、ハハたちにご飯をあげながらわたしたちに慣れてもらう…という、捕獲のための最初の第一歩を歩みだそうとしているわたしたちへの勇気付けとなり、飛び上がりたいほどうれしことになったのだ。

6.30.2008

そして、ネコ再び①

 恐らくカントと兄弟だと思われる母ネコがいる。彼女は去年の夏、うちのマンションで子育てをしていた。その簡単な顛末は、過去の記事に。
 秋口になった頃、わたしたちがカントをうちに迎える決意をした頃から、途端に、彼女をみかけることがなくなっていた。確か、ノータを迎える日、マンション前でNSさんからノータを受け取る時に、生け垣に彼女が潜んでいるのを目撃して以来、随分と長い間、彼女と道端で遭遇していなかったように思う。
 それが、ここ最近、再びマンション敷地内で彼女をみかけるようになっている。それ以前に、外でネコが呼び合っているのが、よく聞こえてくるようになっていた。声に誘われて外を覗いて、Nと二人で「あれ、母じゃん」と確かめ合う。夏に子育てをしていた母ネコであることに間違いない。
 …いやな予感。もしや、また子育てしにここに戻ってきたのでは。ある雨の日、Nが、うちの前に建っているマンションの敷地内で、大きな声で鳴き叫びながらその場をグルグル歩き回る『母』を目撃してしまう。…誰かを探しているにちがいない。早速NSさんに連絡し、餌やりをしている人に『母』のようなネコを見ていないか尋ねてもらうお願いをするために、うちのそばでNも一緒に3人で立ち話をしていたその時。いた!子ネコだ!推定2か月くらい。Nがそおっと近付いたのだけど、大慌てで逃げて行ってしまった。
 3人で思わずため息をついてしまった。…また、増えてきた。子ネコの姿を見て、無条件に「かわいい!」と思えたのは束の間だった。あれは『母』の子なのか?兄弟はいないか?どうすればいいんだ?一気にいろんな思いが湧いてきて、頭の中がしばしカオスになった。
 餌やりをしている人からの情報では、『母』のようなネコはきていない、ということだった。我々の目論みとしては、もしそこにいつもきているのなら、その方にも協力願って、『母』を捕獲し避妊手術を受けさせ、『子』たちも捕獲し避妊去勢後里親探しをする…というもの。その餌場にきていないとなると、どこに通っているのだろう。
 その後何日も、『母』にも子ネコにも会えず。夜になるとマンション界隈をNと二人でふらつき、探してはみるものの、会いたいと思いを募らせている時には会えないもの。Nもわたしも、『母』とその子への容易には片付けられない感情を胸に抱きながら、半ば途方に暮れ、それでも常にあの子たちの面影を道端に探し求めてきた。
 
 そして。今日。
 とうとうマンション敷地内で、『母』とその子二人と対面することができた。

6.20.2008

バカヤロー

 これ。これこれこれ。

 こういう数字が出ているニュースを目にする度に「ケッ」と思う。家事ってあれでしょ。基本自分の身の回りのことでしょ。ご飯作ったり洗濯したり掃除したり片付けしたり。結婚したら、何かい、男は自動的に免除されるんかい。自分のことすらできない、そんなばか男が相変わらずのさばっているんだな。そんなばか男は、生きる価値なしに一票。つい最近、新聞紙上でわたしがだいすきな西原理恵子さんが、「夫に言われて一番ムカついた言葉は『手伝ってあげようか』だった」と言い、「それはそもそもテメーがやることなんじゃねーのか!」というふうに喝破していたことを即座に思い出した。西原さんと言えば、幼子を慌ただしく保育園に送り届け自らも髪振り乱して職場に向かわなければならない、朝の修羅場の様な一コマを切り出して、「こんな苦労が男にできるか、バカヤロー」とおっしゃっていた。常に胸に刻んでいたい名文句である。
 実はわたしと夫は、もう既に、一夫婦としては破綻しているのだが、こどもたちが幼かった頃は夫はいつも、フツーに家のことをしていた。「フツーに」という点が重要。彼にとっては「手伝ってあげる」なんて概念はなかったのだ。当たり前のこととして捉えていたようだ。わたしは大いに感謝していたものだ。そのお陰で、こどもたちと大切なことを、ゆっくりじっくり教え合うことができたのだと感じる。そんな父親を見ているせいか、NもWも、頻繁に家事に参加してくる。大抵は、わたしから依頼をして、それをこなしてもらうのだが、嫌な顔をされたためしはない。別にわたしがそれほど恐れられているわけでもないだろうし。
 家族って、あれ、なに、みんな子細な役割分担があって、そのとおりその役演じないとならないわけ?母親であるわたしが仕事から帰ったら、娘が作った夕飯が待ってたらだめなわけ?皆が夕飯終わる頃帰宅したら、息子が食器洗っていたら間違ってるわけ?家事ができない「男」って、「家族」の意味を知らないの?そんなことも教わらずに、というか、自分の頭で考えることもせず、よく結婚してこどもなんか作れたもんだ。呆れるどころか、感心する。

6.19.2008

あぁ。幕末。

 元気になったと思ったら、この場にかきつけることをしなくなってしまっている。「文章を書く」ということや、「自分の想いを整理整頓する」というような目的でもって、この場を利用するつもりでいたのに。いかん。

 ついでに言うならば、読書量も書くことに比例して、グイッと減っている。やっとの思いで昨日読み干したのは、「高杉晋作」。すごく乱暴に言ってしまうと、あの時代、わたしが好きな「新選組」の対角にいた人物。敵と言っても過言ではなかろう。新選組がらみの小説や史実本などをいくつか読み、俄然長州にも興味が湧き、タイミング良く古本屋でみつけ即購入した本だ。しかしその後、乙一という天才作家の作品たちに魅了されていたので、高杉晋作くんは本棚でしばらく寝ていなければならない羽目になっていた。家に読んでいない乙一の本がなくなってしまい、いよいよ日の目をみたわけだ。
 読後感を書き始めると、いささかキリがなくなってしまうので、端折る。が、一点だけ。かの有名な「おもしろきこともなき世をおもしろく」という彼の句は、彼が病床にあった時に作ったものだと知り、泣いてしまった。いつものことだが、電車内で。恐らく、泣く前に「あーーー」という感嘆音も漏らしていたはずだ。微かではあるが。某東京メトロに乗降されている皆様、挙動不審でごめんなさい。
 こんなにも前向きな言葉を、もう二度と起き上がれないかもしれない体で生み出し綴ることができた彼を、本気で尊敬する。ちょっぴり気分が停滞したぐらいで、この世を「クソ扱い」してしまう傾向にある自分に「ばーかばーかばーかばーか」と、とりあえず手加減抜きで突っ込んでおいた。
 今、現代に、彼高杉晋作がいたならば、同じ句を読めたのだろうか。いや、きっと、こういう、気持ちがブレないしっかりとしたヒトは、どんな時代にいようとこう思えるのだろうな。強い。これからは、落ち込んでしまったら、病に伏しながらこの句を詠んだ高杉を思い浮かべることにする。だってバレーボールは常にテレビ放映されているわけではないから…

6.08.2008

声、かれた

 決まった。日本男子バレーの北京五輪出場。Nと大騒ぎしながらしっかりとその瞬間を見届けさせてもらった。近隣へもたらす迷惑なんてことは一切考えず、というか頭にキープしておく余地がなく、絶叫し尽くした。ご近所の皆様本当にすみませんでした。

 今日はサクッと一言。「感謝」できるヒトビトって美しいなぁと感じた。選手が皆、誰かへの「感謝」を述べていた。本物のヒトビトは、他へ敬意を払えるのだ。これは、ニンゲンが進化の中で勝ち得た、数少ない、でも意義深い“とりえ”だと思う。「感謝」できるヒトビトは、本当に強いヒトビトでもある。本当に美しく、そして本当に強い強いヒトビトに、この数日でわたしはいろんな触発を受けた。ありがとう。不純な動機で視聴し始めてごめんなさい。

6.07.2008

バレーボールで鬱払拭

 勝った勝った!日本男子バレー!

 ここ数日夜な夜な、試合観戦に熱く熱くなっていた。視聴のきっかけは、実にくだらない。全日本がイタリア戦の時、Nが散々迷った挙げ句「やっぱりイタリアのイケメンみーちゃお!」とテレビをつけてしまったのが、ことの始まりだった。
 わたしは、テレビが大嫌いで、一切テレビを見ない。うるさいし嘘つくし、そこに時間を費す価値をこれっぽっちも見出だせないでいる。ニュースも見ない。天気予報も見ない。そんなものヤフーと新聞だけで充分まかなえる。ドラマも見ない。嘘っぱちの世界だから。わたしの方がよっぽどドラマチックに生きてるし。本を読んだ方がフィクションは真に迫ってくるし。ドキュメンタリーも、どこで嘘や嘘に近い脚色が入ってるかわからないので、めんどくさいから見ない。…そんなわたしが、CMの音量のでかさも苦にせず、連日連夜2時間もテレビの前に端座しているなんて、そうそうありえることではないのだ。
 「イタリアのイケメンみーちゃお」とまったくもって不純な動機でテレビをつけたのだったが、なんのことはない、あっという間に全日本選手にイケメンを発見してしまい、親子揃ってメロメロになってしまった。いやはや、情けない。いやいや、情けないのは我々親子であって、全日本男子は、断じて情けなくない!
 中学3年間はバレーボールをしていた。わたしが吹奏楽部に入るだろうと目論んでいた両親は、珍しく猛反対した。小学生の時にテレビで見たワールドカップ女子の試合にひどく感動して、以来バレーボールに夢中になった。なので、あの「自虐的スポーツ」(Nがそう言った)の、きつさやもどかしさや嬉しさは、若干ではあるがわたしの体が覚えている。とは言えども、全日本の力の位置が世界の中で下がっていき、わたし自身も全く無関係な所で生きてきて、大幅なルール改正が具体的にどう施されたのかも知らないくらい、ずっと興味の対象になることはなかった。
 昨日のオーストラリア戦。北京に向けての大一番のこの一戦。わたしは、Wのレッスンの付き添いのため、うちでテレビを見れないという事態に陥った。ところが!なんと!驚くなかれ!わたしのケータイは、無駄にワンセグだったのだよ。買った当初こどもらには、「母に一番必要のない機能だ」と大いにバカにされていたぐらい。が!無駄じゃあなかった!参ったか!レッスン待ちつつバレーボール観戦できてしまう現代テクノロジーに感謝しまくった。文明よ、ありがとう。
 最初はイタリアのイケメン見たさだったのが、全日本のイケメンに目移り。そのうち、イケメンじゃない選手までイケメンに映るようになってしまい、「〇〇さんは精神的イケメンだよね」などとNとほざきあう始末。試合に勝ってもらいたいと強く思う。北京に行ってもらいたいと祈るような気持ちになる。得点をするとテレビの前で一緒にガッツポーズ。ミスが出たら「だいじょうぶだいじょうぶ!」とテレビの画面に声をかける。このわたしが、なんの邪推もなくここまでテレビ視聴を満喫できるのは、画面の向こうにいる人々があまりにも一生懸命で、そこに嘘があるはずがないことを、こちらとしても真摯に受け止めずにいられないからだ。むしろ、日頃テレビを「嘘をまくし立てる箱」としてしか認識できなかったのが、バレーの試合を見ている中では、「本当のこと」だけが限り無くリアルに映っており、それが狂おしいくらい胸に迫ってくるほどであった。
 だからといって、わたしの「テレビ」への評価が好転したわけではない。相も変わらず嘘をがなりたてているわけであって、そんなものへ時間を割くほどわたしは落ちぶれていないので、今後もテレビのない生活は続くのだ。ただし、スポーツ中継だけは、その範疇には入ってこないのだなということに気付くことができた。
 北京まで、あと一勝!勝てれば実に16年振りのオリンピックらしい。勝ってもらいたい。行ってもらいたい。そうしたら、わたしはもうしばらく、テレビの前に釘付けになるのだろう。これまた実に、サッカーワールドカップのフランス大会以来となるのだ。(ちなみにその時には、純粋にイタリアのイケメンを楽しんでいた)



 本当は、選手個人名をあげてあーだこーだ書き連ねたかったのだが、そうすると、デレデレでヘロヘロでヨレヨレの、まるでダメなおばさんっぷりを発揮しかねなかったので、やめた。

5.28.2008

こころの景色

 ここしばらく、憂鬱な気分が全く晴れなく、ということは前述の通り。ただし、食欲も睡眠欲も正常の範囲なので、あまり自分でそこを深く突っ込むことはやめにして、「単なる五月病」としてエイヤっとねじ伏せておくことにした。
 でも、一つ気付いたことがある。こういう状態の時は、一日の中で感情の振幅が極めて小さいのだ。小さいこともさることながら、一つの固定の感情に支配されていることが多い。
 ちなみに今日は「哀」の感情。何を見ても、涙が溢れそうになる。我ながらびっくりしたのは、朝通勤電車を待つ駅のホームで、隣り駅にスーッと伸びて行く線路を見て涙ぐんでしまったこと。そこに「哀」が見えてしまった、と言ったところで誰にも理解してもらえない。多分。
 「怒」に支配されている時のわたしには、近寄らぬ方が良いかと。全部に腹が立っているから、そんな時には総力を上げて全身全霊で、オールタイム戦闘態勢でいる。ので、すぐケンカができる。ので、サワルナキケン。
 一番多いのは「諦」の情景。どんなに天気がよくても、わたしの目の前にはグレイの世の中しか広がっていない。「諦」から派生して「哀」と競合したり共鳴したりすることも、ままある。
 とにもかくにも、マイナス感情、それも大概一個だけが、わたしの頭のてっぺんから爪先までを貫いてしまうのだ。連日そんななので、しんどい…そう考えると、ニンゲンって本当に「感情」の動物なのだなぁと感心せずにはいられない。あちらこちらに自由にこころを動かすことで、自らの精神のバランスを保っているのかもしれない。そうすると、今のわたしは、こころのどこかの回路が何かの理由で遮断されて、潤滑に巡っていないからバランスが崩れてしまっているのだろうか…などと、冷静に結論を出したりして、我ながら「あほか」と思う。

 昨年の今日は、あまりにもいろんなことがありすぎて、忘れ難い日になっている。「哀」も「怒」もあった。そして「喜」も。
 それぞれが、わたしが抱えきるにはとても大き過ぎて、パンクしそうな自分がいたっけ。

5.26.2008

音楽漬

 久しぶりにパソに向かってキーボードを使って書いてみる。いつもは、ちょっとした空き時間に、ケータイに書き溜めている。そして、後からつなぎ合わせたり組み合わせたりする。
 昨日は大変濃厚な一日を過ごした。昼過ぎから、サントリーホールで催された日本フィルのベートーベンを聴きに。その後場所を変え、新宿ピットインでイケメンテナーサックス橋爪亮督のリーダーバンドのライヴを聴きに。両者それぞれが物凄くて、圧倒された。
 クラシックオーケストラを聴きに行くのは実に4年振りだった。普段、音楽を聴きに出入りしている場所は、JAZZの、それもとてもマニアックでアンダーグランドなライヴハウスばかりなので(事実地下に存在することが多い)、数年ぶりにホールで何百という聴衆の一人になっている、そのこと自体がなんだかウキウキする事柄だった。今年は年頭に「絶対オーケストラを聴きに行く」と目標を立てていたので、ひとまず、目標達成。達成に導いてくれたMちゃんに感謝。
 わたしの後ろに座していた方(知らない人)がクラシック通のようで、休憩時間に披露してくれたクラシック豆知識には思わず「へえーーーー!そうなんですかーーー!」と大きくリアクションしたくなってしまった。が、見知らぬ人。グッとこらえた。「のだめカンタービレ」という漫画がおおはやりして、我が家にも、半分くらい文庫が揃っているのだけど、何故かわたしは読んでいない。あの人にもこの人にも「おもしろいよ」と言われるのだが、読んでいない。「漫画は『銀魂』しか読まない」とこころに決めているわけではないのだが、読んでいない(だって、両さんも読んでるし)。なので、いい機会だから、是非読んでみようと思った。
 今更ながら、ベートーベンはすごいコンポーザーだなと感じた。こんな風に簡単に言葉にしてしまうのは、非常におこがましい気がするのだが。その楽曲たちには、「悲嘆」や「苦悩」の瞬間が大いにちりばめられているのだけど、最後には「希望」に達する。わけのわからない、不定愁訴的な、「悲嘆」に暮れているわたしの心身がかなり揺さぶられた。そして改めて、この偉人は、作曲する際には、脳内でフルオーケストラの音が鳴り響いていたのだろうな、と思った。でないと、あんなシンフォニーは作れない。以前ピアノを習い、ベートーベンのソナタを練習していた時にも同じことを感じた。「あ、このフレーズはきっとこの楽器が鳴っているのね」とオーケストラの音色を想像しながら練習をしたものだった。ピアノソナタで、へたくそなわたしが練習しながらイメージできるのだから、楽曲がいかに豊かかがわかる。ああ。やはり、半期に一度くらいは、薄暗い地下のライヴハウスではなくて、開放的なホールで音の塊に包まれないと…と思いつつ、その足で、薄暗い地下のライヴハウスへ。
 これまた、約1年半振りの橋爪バンド。バンド全体のサウンドの「鳴り」の変化にとても驚いた。5人のアンサンブルによって生み出されてくる音の塊が、昼間聴いたオーケストラと遜色ないくらいに、色鮮やかで、わたしに迫ってきてかつ、心地よかった。5,6年程前に、この橋爪バンドで演奏するドラムの橋本学の音に撃墜され、それ以降彼の追っかけと化しているのだが、橋本学自身の「音」もえらく変化したなと感じた。より、しなやかに。そして、より自由に。橋本学が、橋爪亮督グループという大地を縦横無尽に楽しげに駆け回っているように映った。そして、不思議なことに、橋本学自身のリーダーバンドでの演奏より、こちらでの演奏の方が「主役感」を大いに発しているのだ。なぜなんだ。不思議。
 
 大満足で帰宅して、今日一日の体験が明日からの糧になればよいなという淡い期待を持って就寝したのだが、朝起きた瞬間からヘコんでいた。
なんだかな。自分がよくわからない。乙一読もう。
 

5.20.2008

鬱・鬱・鬱

 かなり病んでる感じ。周期的にやってくる「気分」ではあるのだけど、今回はかなり久方振りなので、こういう感覚の適切な処理の仕方を忘れ去っている。だからか、面食らってうろたえている。どんな感じか脈絡考えず書き出してみる。
 ニンゲンの「非」の部分しか目に付かない。自分を含む。そして、憎しみの感情が充満する。いつでもどこでも、誰にでも言い掛かりをつけて、殴りかかりたい気分。そしていっそのこと、殴りかかった相手に殴り殺されたい。そんな気分。
 ニンゲンは、進化発展していく中で、様々な犠牲をこの星に強いてきた。そのことを考える時に、元気な時には、「その犠牲を軽減するために自分ができること」を考えることができるのだが、今は破壊的なことしか思い浮かばない。かつてNが口にした名言で「ニンゲンは地球の『毒』だ」というのがある。全くもってその通り、毒を駆除しましょう、自分含む、と考えてしまう。自分というニンゲン一人が存在することで、如何ほどこの星を消耗しているのかを想像すると、吐き気がしてくる。
 日本という国は、わたしにとってとても生きていくのに苦しい場所だ。弱いものに容赦がないから。協調を重んじ、群れないと行動できない。自分の権利だけは声高に叫ぶことはできるが、他者の権利を受容する度量はない。所謂「フツー」でないと、コミュニティから排除される。あぁ、もううんざり、となる。そしてやはり、元気な時ならば、「〇年後には日本を出る」と具体的な案を思い浮かべそこに向かうことができるのだが、今はてんでダメ。自分の存在地や存在そのものを否定しまくって、自分で自分を追い込んでいる。「こころ」がなくなればいいのに、と思う。
 生と死を分かつ決定的なものっていったいなんだろう、と考える。今現存する「わたし」という物質がなくなるのが死ではあるのだけど、では「わたし」という意識はどこにいってしまうのだろう。そんなことも、延々と考えてしまう。
 引きこもりたい。でもお金のために仕事いかなきゃだ。そして、「こいつも死ねばいいのに」と胸のうちで思いながら、表面に笑顔を張り付けて一日を過ごさなきゃだ。そんな自分に反吐が出そう。

ずいぶん古い本だが、最近ようやく読み終えた本が一冊。
「戦争の記憶」イアン・ブルマ著
たくさんの人に読んでもらいたいと感じた。

 あとは乙一をたくさん読んだ。こんな話読んでるから上がっていかないのかなとも思ったり思わなかったり。でも、おもしろいんだもの。やめられないんだもの。わたしに勧めてくれたNよ、ありがとう。でも、ちょっとだけ恨む。

5.12.2008

息子とその母

 この春中学一年に進級したW。しばらく前にアップした動画の、あのダンスを元手に、某スポーツクラブの選抜チームのオーディションに見事合格し、4月から、非常に厳しいレッスンがスタートしている。並行して、中学校では吹奏楽部に入り、入部した途端、指導者からギター譜をドカドカと渡され、毎日泣きのギター練習をしている。…そんなこんなで、本気の集団に、それも2つ同時に所属することになり、どっぷりと活動にハマりつつあるW。最近、弱音ばかり吐いているのである。
 4月にあったダンスの初めてのレッスンの日。帰り道Wは非常に浮かない面持ちでいた。気に懸り、途中のマックでお茶しがてら話合いをした。本人の言葉では「吹奏楽に打込みたいから、ダンスは辞めてしまった方がいいと思う」という心境になったようだ。
 が、その意気込みとは裏腹に、昨日とうとう吹奏楽の練習後、彼は泣きながらうちに帰ってきたのだった。「ただいま!」と元気を振り絞って言ったものの、わたしの顔を見るなり、泣き崩れてしまった。「もう頭がパンパンで破裂しちゃった」と泣きながらこぼしていた。思わずもらい泣きしそうになったのだが、グッとこらえた。彼が自分で選んだ道。そこに理不尽で納得がいかない何かがあるわけではないから、「かわいそう」と思ってはならないのだ。その場に座らせてゆっくり話を聞く。

 彼は今まで、何事もソツなくこなすやつだった。ダンスもギターも、そこそこの練習だけで周囲の人間から、「うまいよね」と称賛されることができていた。しかし、今彼が身を投じているのは、「本気の集団」。そこそこの練習だけでついていける訳がないのだ。
 ダンスレッスンでは、たかだか15分程度の振りの指導だけで、いきなり踊らされ、「ボロボロやな」とコーチから酷評される。吹奏楽では、死ぬほど曲を渡され、一個一個コードを拾い頑張って練習した曲はスルーされ、出来上がっていない曲を指して指導者から「〇〇ぐらいはできるようになっていろ」と厳しいダメ出し。…今まで何かとチヤホヤされてきた分、自分の「できなさ」を改めて突き付けられると、あっという間にWは崩壊してしまうのだった。しばらく前に彼はこんなことを言っていたっけ。「俺はダンスチームでも吹奏楽でも、びりっけつだ…」と。このまま、卑屈になっていじけて、両方投げ出すのかな、となんとも言い難い漠然とした不安を感じてしまった。
 しかし。そんな彼にも「負けず嫌い」な部分があったのだ。「でも、かっこよく演りたい」という発言を何回も口にしている。その気持ちが彼を支配しつつあるのか、今日は「ギターやりたくない」というまるで後向きなメールをわたしに送りつけておきながら、心配で大急ぎでわたしが帰宅した時には、ノリノリでギターの練習をしていた。それも歌いながら。部活からの帰宅が遅くなったので、選抜じゃない方の週一の普段のダンスレッスンは休んでしまったものの、就寝前には非常に入念に柔軟体操をしていた。

 パーッと吹っ切れたかと思ったら、また闇の中に分け入ってしまい、さまよっている中で再び、一筋の光明を見つけ出して…きっとそんな繰り返しの中で、Wは大きな苦しいと楽しいを自力で獲得しながら、グイグイと大きくなっていくのであろう。なんだかとっても羨ましい。Nからよく「母はもっとWをほっとけば!」とたしなめられる。ごもっとも。手も口も一切出さないことも、出すことを死にもの狂いで我慢することも、子を育むためには必要な時がある。Wは今、自分の足で歩いていくための猛特訓を受けているのだな。それを肝に銘じるのは、わたし自身にとっても試練なのである。
 わたしが今Wに提供できるのは、おいしいご飯と、たくさんの笑いと、いっぱい話したくなる空気。多分それだけで充分。わたしも、Wの歩みと共に、強く大きなヒトになっていこう。

 で。Wは、本当はドラムがやりたいのです。Y先生、どうかひとつよろしくお願いします…

5.05.2008

もう一人のお母さん②

 「会いに行く」とこころに決めたものの、その直後に全く不本意な形で会社をクビになったり、Nがドイツに旅立ったりWが御蔵島にイルカに会いに行ったり…と、収入はないのに出費ばかりがかさみ、資金繰りのメドが全然つかず、「遊びに行くよ!」というセリフを噛み殺しながら、ママとメールのやりとりを続けていた。
 ママとさよならをして19年という時間が経過した。その時間の中で、ママもわたしも、辛い思いや悲しい思いを存分に味わい、わたしはママからのメールに度々涙し、また、わたしのメールを読みつつ涙しているママの姿を想像することは難しくはなかった。
 Nがドイツへ行くための航空チケットを手に入れる際、担当のお姉さんに、何気なく「来年の4月くらいの米国往復チケットって、いつぐらいから出てきますか?」と尋ねていた。ゴールデンウィーク前の4月辺りにチケットが安いというのは、前回の渡米の際に経験として知り得ていたのだ。お姉さんに尋ねることで、自分の再渡米が4月なんだ、ということを自らに言い聞かせ決意を頑丈にする結果となった。お姉さんの話では、年明けからぼちぼちと…ということだった。働くぞ!と当時無職だったわたしは、にわかに意欲を燃やした。
 その後仕事に就けたのだが、ネコたちのこともあり、お金は流出していくのみ。財布の中身はいつも、渡米への絶望を主張していたのだが、わたしの精神はあまりへこたれることはなかった。「行く」とこころさえ決まれば、今現在手元に資金がないことさえも、なぜか不安要素にはなりえなかったのだ。
 年を越して、今年に入ってから、ウェブで日米間の航空チケットの相場をチェックするようになった。具体的に「最低〇円かかる」という情報を仕入れることは、更に刺激になった。そして。ママに会いに行くんだ!という思いが全くゆるぎのないものになった2月のある日、わたしはとうとうママに、「会いに行くよ」とメールで宣言することができたのだ。
 もちろん、ママの返答は喜びと嬉しさに満ちていた。ありったけの言葉を使って、大きな驚きと歓迎の気持ちをわたしにぶつけてきてくれた。そこに、19年の時の隔たりは微塵もなく、あの時あのままのママがメールの向こうにいた。

4.08.2008

もう一人のお母さん①

 最近吠え過ぎたので、吠えずに済ませられる話題を。Nが読んで自身のサイトの日記で、「うちの母はきつい」と嘆いていたので、少しばかりヘコんでいるのかも。
 19歳の年の春、2か月ほどホームステイという形で米国に滞在した。カリフォルニアのフレズノという中都市にいた。高校を辞めて、大検を受けたのだが、手応えがあまりにも悪過ぎたので、「翌年再挑戦の前にちょっと遊びに行ってやる」というノリで渡米準備をせっせとしていた記憶がある。その後、大検は実は合格していたという、うれしいけど泣きたくなるようなオチがついてしまったのだが。ともかく、こころは既に米国 に吹っ飛んでいたので、大学受験準備はその後で…とさっさと折りをつけた。
 それはそれは、楽しい2か月だった。思い出すと、今でも19歳のわたしに戻ることができる。英語学校のクラスの多国籍さ。インドネシア、香港、スペイン、フランス、ドイツ、韓国、コロンビア、そして日本…これほどにも母国が様々な仲間たちと、拙い英語で和気あいあいとコミュニケーションを取り、楽しい時間を共に過ごした。わたしが日本に戻る時には、全員と一人一人ハグをして号泣した。未だに全員名前を覚えている。
 そしてホームステイ先にも恵まれた。ママは自宅でベビーシッターをして働いていた。一人息子は5年生で、非常にやんちゃで毎日ママが叱り飛ばしていた。パパは口髭をたくわえたとても穏やかな人だった。毎日一緒に話して、大いに笑って、落ち込んだ時には励ましてもらった。帰る日の前日は、パッキングしているわたしの部屋にみんなが入れ替わり立ち替わりやってきて、「あー。あさみは帰っちゃうんだ」と呟いていた。出発当日、洗面所でママと二人並んでおしゃべりをしながら化粧をしていた時。ふいに二人の間に沈黙が入り込んできて、たまらず二人で抱き合って涙した。…もちろん、化粧はやり直し。空港で、最後のハグをした時にママがわたしに言った言葉は、絶対に忘れない。「ここに来たい時は、いつでもきていいよ」と。
 この9年ほど、ママとわたし、お互いに連絡をしていなかったのだが、一昨年秋に思い切って久々の手紙をしたためてみた。そこには「この手紙を受け取ったら、すぐに記載のアドレスにE-mailをください」という内容だけを盛り込んだ。しばらくの間、わくわくしながらメールボックスを開いていたのだが、その期待はいつも挫かれていた。引越すかもしれない…という話をかなり以前に聞いていたから、そのせいで手紙は届かなかったかも、という諦めのような感情が出てくるようになっていった。そうして、手紙を出したことさえ忘れ去りかけていたある日。とうとうママからメールがきた。メールがきている事実をみて涙。メールに書いてあるこの何年かでママに起こった事実を読み取り、再び涙。そしてその時に、「ママに会いに行こう」と強く固く決意した。去年の5月くらいのことだった。

3.21.2008

ご立腹

 疲れている。
 ただ普通に人並みに仕事に行って人並みに家事をこなして人並みにこどもたちと戯れて人並みに犬ネコをかわいがって人並みに大切な人々と交流して。普通に日常を送っているだけなのに、週末は一気に疲労の大波が襲ってくる。疲れると、普段はたやすくスルーできることも、いちいち丁寧に頭にきて腹が立って、むしろそれが愉快にさえ感じる。疲れゆえに生じている怒りを、もしかすると本当はわたしの根っこに存在していて疲れゆえに表面化しているかもしれない怒りを、それこそ疲れの勢いだけでぶちまけたい。
 「男」という性別のニンゲンを基本的に嫌悪している。疲れていると、露骨になる。職場でも職場に向かう道すがらでも、「男」と思われるニンゲンの態度行動言葉、もう全てに腹が立って、そいつの急所を切り落としてやりたくなる。稀に、腹が立たない「男」というニンゲンに接触すると、泣きたくなるくらいうれしくなる。ただ、そういう「男」は確率的には10人中3人いればいいほうで、大概は回し蹴りくらわせたくなるような輩ばかりだ。
 大体、「男」は何故あんなに偉そうなんだ?他者に投げ掛ける言葉で、その人がどういうふうに感じるかなんて、きっとこれっぽっちも想像できないのだろう。頭悪過ぎ。
 電車の中で、どうして「ドカッ」と座って新聞を広げられる?空いている車内ならまだしも、通勤時間帯の混雑した車内で。ここが、公の場で自分の部屋ではないことすらわからないのか。ほんとに頭悪過ぎ。
 更に電車の中。自分がばらまいた書類を、必死になって集め拾ってくれた若者に、どうして「ありがとう」の一言が言えない?おまえのために世の中が回っているわけではないのだよ。ばか。
 人類の歴史を俯瞰して眺めると、どれだけ「男」と呼ばれるニンゲンが、わたしたちの生きている世界を蹂躙し深く傷をつけているかがわかると思う。そもそも、「戦争」を喜んで引き起こしているのは「男」。そして、凶悪な犯罪は、概ね「男」が犯人。世を恐怖に陥れるこの2つの覆し難い事実を全「男」がきちんと認識しているならば、こんなにも「男」が偉そうにしていられるはずがない。…あぁ。羞恥心さえ欠落しているのか、「男」には。
 「男」はニンゲンとして「女」ほどパーフェクトではないのだ。「女」ほど強くもなく、しなやかでもなく、創造的でもなく、平和的でもない。とわたしは断言したい。染色体がいっこ足りないせいなのか、命を生み落とし育めないせいなのか。ともかく、確実に「男」は「女」より重大な欠陥を抱えているのだ。そして、有史以来、「男」は「女」のすごさを本能的に知っていた。しかしそのすごさを讃える度量を持っていないというだけでなく、弱いがゆえに恐怖心を抱き、挙句唯一持っている能力らしい能力、「腕力」でもって「女」を虐げてきたのだ。これが今までの「男」の本質で、未だに発展できずにその本質を無意識に引きずっている「男」がほとんどなのだ。
 じゃあどうすればいいのか。答えは簡単。まず、自らの無能を一刻も早く認めてもらいたい。子どもも生めない肉体なのだ。そのぐらい当然だ。そして、「女」を敬いなさい、と言いたい。あなた方も、「女」から生まれたのだ、感謝なさい、と言いたい。「女」を尊敬できる「男」が増えるだけで、必ずこの世界は変わることができるはずなのだ。隣にいる、配偶者なりパートナーなり親なり姉妹なり友人なりに、最敬礼するだけで良いのだ。
 これからの時代、世界を良き方向へ導けるのは、「女」の力でしかありえないと心底感じる。「男」たちが作り上げてきたこの世は、見るも無残に、行き詰まりの堆積物と化している。向こう100年で、リーダーシップを「女」が取ることを「男」が排除しようとするならば、この星は間違いなく滅びるように思う。

 本心は仲良くしたいのだ。「男」と呼ばれるニンゲンとも。でも、それは、向こうの態度次第…というのがわたしの思うところ。態度如何では、やはり急所を切り落とすしかないと考えているので、とりあえず、わたしの眼前では謙虚なニンゲンでいられた方が身のためかと。知人の「男」の皆様。

 少し疲れがとれた。

3.16.2008

教え育む

 この国の未来を真剣に考えるならば、こどもたちへの「教育」に視線が真っ先に注がれなければと常に考えている。では、「教育」とはなんだろう、その定義は人によって様々であることは想像に難くないが、目指す場所は同じであった方が好ましいに決まっている。
 そんなことを、このわたしのわずかばかりの脳みそで悶々を悩まずにいられない理由はあれこれとあるのだが、昨日ふと目にした、塾とか予備校とかいうものの看板にあった「一流校主義」というようなキャッチコピーが頭に張り付いて離れなくなったからだ。一流校として思い浮かぶ学校はいろいろあるのだが、じゃあその一流校は一流のヒトビトを果たして排出しているのだろうか甚だ疑問である。先ごろ心底むかついて、読んでいた新聞を思わず床に叩きつけてしまった再生紙の偽装事件。あそこで頭を下げていた大手製紙会社のヒトビトだって、もれなく所謂「一流校」を出ているヒトビトであろう。この事件更にむかついた、というか呆れて笑いしかでてこなくなったその後の話として、偽装していた紙を捨てると言い出した…というものがあったが、こんな発想しか生み出せないヒトビトが「一流校」出身?一流校とは、頭悪いヒトビトを製造するところなのか?一流校を出て大手の企業に入ってそこそこ昇進してきっとそこそこお金を持つと、ヒトは「バカ」になってしまうのか?ならば、今わたしたち世代の親たちは、そのこどもらに暗に「バカになりなさい」と躍起になってお勉強を押し付けているのか?極論すぎるかもしれないが、そんな側面をはらんでいる可能性は多分にあるわけであるし、ましてやその可能性の有無さえ感じることもできないバカ親だっているのである。その親が一流校をでていたとしても、バカはバカでしかないのである。教育の目指す先は「幸せ」でしかないと信じている。そうすると、この国の大人と呼ばれるヒトビトは「幸せ」をはき違えているとしか思えないのである。
 わたしは、こどもが幼い頃から、「命には限りがある。いつか、わたしもあなたも、終わるのだ」ということを再三話してきた。だからこそ、刹那にいきるのではなく、よりよく楽しく生き抜いてもらいたいという願いを込めていた。どんなに苦しくても悲しい気持ちに囚われても、今自分の命があることがすごい、と感じられるヒトになってもらいたいと思っていた。そう思えることができれば、自分の命を存分に輝かせることができる場所は、決して目の前に見えている景色のなかだけではないということに気付いてくれるはずだと考えてきたからである。そして、傍らにいる他の命を慈しむこともできるはずだと確信していたからである。「幸せ」とは押し付けではありえない。自分が自らで感じ取れるか否か、のみである。「一流校」に向かって死に物狂いでお勉強させれば、こどもたちが「幸せ」を感じ取れるこころを育むことができるのか?とこの国の大人と呼ばれるヒトビトに尋ねてみたい。
 ゆとり教育の是非が云々されているが、わたしは「ゆとり」の方向性は決して誤りでなかったと思う。わが子たちは、「ゆとり」の最先端に置かれた。評価対象にならない“総合”という教科に何故かわたしがこころ躍らせた。この“総合”に英語教育をあてがってきた学校も多くあったようだが、わが子等の小学校は、こどもたちを近所にある江戸川に向かわせた。低学年の頃は、長靴持参で毎日毎日江戸川通いをしていたものだ。帰宅して生き生きとわたしに江戸川報告をしてくれるこどもたちをみることが、わたしは大好きだった。…結果、所謂学力の低下が懸念され「ゆとり」の見直し、ということに至るようだが、「教育」の場所で結論を急ぐことはやめてもらいたい。たかだか10年にも満たない取組みの結果を全てにしてもらいたくない。九九があやふやでも、台形の面積をもとめられなくても、「命がすごい」ということを肌で感じ取れるこどもたちの方が、絶対に人生を有意義に楽しく過ごせるに決まっているのだ。
 もし、完全に「ゆとり」を見直して、この国の教育システムが学力向上にひた走ることを目指すのならば、一切の感傷を排除して、お勉強に徹することのできる環境を作ってもらいたい。中途半端に、こころの教育などやってもらいたくない。そんなことは、各家庭で保護者がやればいいのだ。この国が将来的にどのようなニンゲンを作り出していきたいのか、義務教育という現場では、そんな差し迫った命題に向かい合っているという自覚をもってもらいたい。もちろん、わたしたち大人と呼ばれるヒトビトも言わずもがなである。
 現在の義務教育というシステムと闘い尽して、ようやくその勤めから解放されたNであるが、思いがけず彼女の口から感謝の言葉を聞けた。そこにいたヒトビト、友達や先生たちへの感謝である。憎むべきは制度であって、その場に存在するヒトビトではないということを、彼女は理解してくれたようでわたしは非常に嬉しかった。そして、今後も、もうしばらくの間は彼女にぴったりと添うて、「幸せを感じ取るこころ」を共に育んでいきたいと新たに決意した。

3.13.2008

Wのことも少し

 二人目で男の子。かわいくて仕方がなかった。おまけに小さい頃からそこそこ体が弱くて、わたしとしては常に体の状態が気に懸り、手も口もいっぱい出して育ててしまった。…原因はそこだけに求めることはできないだろうが、そうこうして、なんだかフワフワしていてユラユラしていて、良い意味でも悪い意味でも、何事にもテキトーなWが現存している。
 が、幼い頃からとても穏やかで優しい子だった。
 まだ1歳に満たない頃。当時3歳だったNをこっぴどく、かなり理不尽に叱り飛ばしていた時。Wはハイハイで駆け寄って来て、わたしとNの間に割って入り、わたしを睨み付け言葉にならない唸り声をわたしに投げ付けた。明らかにわたしを責めていた。そして泣いているNに向き、Wは心配そうにNの顔を覗き込んだのだった。
 幼稚園を卒園の直後、だいすきだった担任の先生が園を離れてしまう離任式では、人目もはばからず、Wは「さびしい」と言って大号泣した。
 小学校3年の授業参観。教室に到着したわたしの姿を見つけるや否や、「おかーさん!」と嬉しそうに走り寄ってきてわたしに抱き付いた。近くにいた同級生に「W、こどもみたい」と半ばからかわれるが、Wは「だって、こどもだもん!」と毅然と言い返した。
 最近、ダンスのオーディションを受けた。その練習のため夜スタジオに行った帰り道「こういうチャンスをくれて、おかーさん、ありがとう」と照れながらわたしに伝えてくれた。
 こうして振り返ると、彼は男の子でありながら、実に豊かに、率直に、自分の感情を表現してきてくれた。母親としては、これほど嬉しいことはないと感じる。
 Nは常に、わたしが明らかに褒めることができる「結果」を、たくさんわたしの目の前に提示してきてくれた子だったと思う。比較してはいけないのだけど、Wはそういうタイプではなかった。宿題も明日の準備もつい最近まで、わたしに確認されなければできなかったし、朝脱いだパジャマは未だに自分で洗濯カゴに入れないし、お菓子を食べたらゴミは放置、マンガを読んだら片付けない、字は汚い…わたしが小言を言うことができる「結果」を常にもたらしてくれていた。
 しかし、幼い頃からの彼の言動をこうやって詳細に思い出すと、日常のだらしなさなんて大したことないよね、と思ってしまうのだ。Nにしてみれば大変おもしろくない話だろう。人間は、できないこともあって、できることもある。この姉弟はこれらが全く正反対なのだから、わたしとすればなかなかおもしろい。
 間もなく、Wは小学校を卒業する。面倒な中学生に突入だ。彼はその優しさでもって、いつもわたしに寄り添っていてくれた。Wがこれからもその「良さ」を見失うことがないよう、支援していきたい。パジャマは引き続き、わたしが洗濯カゴに入れ続ける覚悟でいる。

 オーディション、受かってるといいね。

3.02.2008

試しに動画をあげてみる

もひとりの我が子、Nほど激しくは生きていない、Wのいまんとこの実力。

2.21.2008

Nのことを少し

 Nは今、中学3年。世間的に言ってみれば「受験生」。だが、Nは「受験生」であることを投げ捨てた。とても潔い決断であった。一応テストを受け、合格し、この春から通信制の高校に通い始める。
 Nが中学校に行かなくなって早1年経つ。学校に行っている時は毎日体のどこかしらが不調で、うちにいる時は常に仏頂面で、学校から帰宅してうちに駆込むなりバッグを床になげつけて大号泣、なんてことは数え出したらキリがない。学校で陰湿ないじめにあっていたわけではない。ならば、何故彼女はそんなにもくる日もくる日も、不機嫌にならなければならなかったのか…
 中学2年から3年というのは、自分の経験から言っても、非常に面倒でややこしい時代だ。だからこそ、なにもかもテキトーに流してお気楽に日々を過ごせばよいのに、彼女にはできなかった。できないものは仕方ないのである。
 責任感が強くおまけに正義感も強く更に正しいと感じたことを自らの口で主張せずにはいられない。そもそもこんな性分を抱えながら、日本の義務教育下の「中学校」へ毎日のほほんと通えるはずがないのだ。
 これは小学校5年の時のこと。掃除の時間。そこにNがいるから、彼女にその場の取り仕切りを任せて、担任はその場から離れた。担任の姿が見えなくなれば、当然こどもたちはさぼり始める。が、Nは一所懸命掃除を続け、その上掃除をしない友達に注意をした。…「そしたら、友達は何も言わないでみんなでわたしを睨むんだよ。わたし、泣いちゃった」とNはその時の様子をわたしに話してくれた。「睨まれたから悲しくて泣いちゃったの?」と尋ねたら「やらなきゃいけないときにやることをできない人が可哀相で泣いちゃった」と彼女は答えたのだ。…Nはそういうニンゲンなのである。幼い頃からそうなのである。
 彼女にとって、目の前にいる友達が敵だったのではない。例えそれがその子にとって不本意だとわかりつつも、「体制」に流れのまま飲み込まれることを無言で強いる。曖昧な「正しい」のそれも上澄みだけをヒステリックに唱える。そんな、こどもたちの周囲にいる無力なくせにやたら偉そうな大勢の「大人」たちと闘っている気がしてならない。
 こどもたちは常に「今」の空気をたっぷり吸い込みながら懸命に生きている。吸い込んだら呼吸困難になってしまうNのような子もたくさんいるはずである。わたしたち大人には、苦しがっているこどもたちの背中をさすって、一緒に深呼吸する余裕が果たしてあるのだろうか。空気自体をきれいに変えていこうとする気概があるのだろうか。
 Nの約一年の闘いは、勝利に終わったと感じる。大方の同年代が目指し進む、受験などというくだらないシステムを踏み潰して、自分だけの「道」を見つけることができ、そこへ一歩踏み出したのだから。彼女は、「自分の人生は自分で作るのだ」という実感を得たと感じている。なぜなら、そこにこれっぽっちも恨み言がないから。
 「オーラは30代だよね」と、先日近しい友達に宣告されたN。でも、まだまだ14歳。犬もネコもドイツ語も幕末も、好きなだけ思う存分学んでもらいたい。そして、いつまでもわたしの同志であってもらいたい。

2.06.2008

ねこ⑤

 H氏の元で、cantoはどんな様子で暮らしていたのだろう。

 H氏はNに、写真つきのcantoの様子の詳細メールを、非常にこまめに送ってくれていた。優しい心遣いに感謝。わたしは、cantoをH氏宅に送り届けた。そして、cantoがキャリーから出てくる姿を一目見てからH氏宅をあとにしようと目論んでいた。だが、でてこない。お腹が減っているだろうから、キャリーの前にえさを置いて誘導してみた。それでも、出てこない。うまくつられて出てきても、すぐにハッと我に返る感じで、キャリーの中に戻ってしまう。相当警戒しているようだ。cantoはノラ時代から、ノラとは思えないほどニンゲンに愛想がよかったのだが、いまひとつ「男のニンゲン」は得意ではなかったのだ。拉致があかない。H氏には非常に申し訳なかったのだが、警戒したままのcantoを放置してH氏宅をあとにした。
 それから何時間過ぎてからだろうか。Nのケータイに「cantoが出てきた」との報が入ってきたのは。辛抱強くじっと待ってくれたH氏、本当にありがとうございました。期限間近になった頃にはすっかり慣れたようで、H氏の座っている膝や寝転んでいる胸の上に乗っかっていき丸くなっていたらしい。それだけ慣れてしまったなら、きっとお別れは寂しかったに違いない。

 H氏宅から我が家に戻ってきた翌々日にcantoは去勢手術をうけた。病院からうちに帰ってきたcantoは麻酔から覚めきっておらず、足取りがおぼつかなかった。わたしの部屋まで連れて行くと、大急ぎで布団にもぐりこんだ。それから一人で眠らせておき、しばらくしてから様子を見るために布団をめくった時。眠くて体もだるいはずだろうに、覗いたわたしに応えて、目を閉じたまま、それはそれはか細い声で「にゃあ」と鳴いた。なんだか胸の辺りが熱くなった。これがこの子の本質なんだ、と感動してしまった。
 真冬に空地に生み落とされたcanto。群の先頭に立って、幼い兄弟のために、とても平和的で友好的な態度でもってわたしたちニンゲンにご飯をねだってきたcanto。この子はありのままの全部を受け入れてなおかつ、受け入れたことに恨みつらみが全くないように感じざるを得なかった。あまりにも主観的で偏った見方かもしれないが。
 同じ「いのち」のはずなのに、わたしはどうなのだろう。便利で満たされた日々の生活が当たり前に感じ、ちょっとした個人的な「面倒なこと」にイライラしたり不平を言ってみたり。…cantoの姿を見ていると反省をせずにはいられない。
 その数日後、ねこべやに戻ったcantoは、notaへの攻撃も減り(たまにある)、みんなと一緒に暮らしている。
 先住犬のmusicaがスタートで、canto,tono,nota,tace,celesteと名前でしりとりをしている。全てイタリア語。そして音楽関連語。名前が先にできて、あとからねこたちをあてがっていったのだが、恐ろしいくらいに名前の意味とそれぞれの個性が一致してしまったのだった。この偶然もわたしのネーミングセンスの一部だと思っていよう。


2.05.2008

Chi è quella piccola ragazza?

 日曜同じマンションのお隣に住むHさんと一緒にお昼をした。彼女とはお隣同士でありながら、特別に仲違いしたわけでもないのに、ここ何年か疎遠になっていた。
 約9年前、この新築分譲マンションに越してきた。新駅ができ、新設の小学校ができた、生まれたてほやほやの新しい街だった。Nはその真新しい小学校に入学する年齢だった。わたし自身いろいろあって、一年間完全なひきこもり生活の後 の新天地出発であったので、期待よりも不安のほうが大きかったことは否めない。もちろん、若干7才だったNも同様だったであろう。
 親子共々に大きな不安を抱えている中、それを凌ぐ大きな朗報が入った。なんとお隣さんの二人のお子さんAちゃんYくんが、それぞれNとWと同級だとわかったのだ。その時一気に湧いた安堵感は未だに忘れることができない。AちゃんとNは一緒に通学するようになった。
 その後、こども同士のそれぞれの交遊関係も変化し、AちゃんとNが段々と接することがなくなっていくにつれ、わたし自身もAちゃんのお母さんHさんと疎遠になっていった。
 昨年暮れ、近所のスーパーでHさんとバッタリ会ったときに、普段なら挨拶程度ですれ違うところを、彼女が「聞きたいことがあるからあとで電話していいかな」と尋ねてきた。なにがあったのかな、と思いつつ電話を待った。かかってきた電話で彼女は「犬が飼いたいからいろいろ聞きたい」ということと「久し振りにお茶でもしながらゆっくり話したい」ということをわたしに告げた。
 それから二人で都合をつけてお茶をした。そこで、わたしが彼女の口から聞いた話は、彼女の人生の苦労の道のりと、私立の中学に進学したAちゃんの悲しい体験だった。わたしの胸のうちでいろいろな思いが去来した。そして、Hさんの話をもっとたくさん聞きたい、Hさんの味方になりたいと強く思った。年が明けて、その後どうしていたかなという思いもあり、お昼に誘い日曜に至ったのだ。
 
 二人であれこれ話していく中で、このおばさんが二人揃って「まじでーー!」と奇声を発せずにいられないほどの、驚嘆すべき事実が発覚してしまった。
 Aちゃんは小さな頃から、少しばかり霊的、と言えばよいのか、特殊な能力があったらしい。電車で隣りですまして座っている人々の感情の「波動」のようなものが伝わってきたり、頭に浮かんだ数字を書いただけで計算のテスト満点をとったり…といった具合で。その話を聞いて我慢できずわたしは、Nの話をした。
 2年ほど前からNは、小さな女の子が見えるらしい。その子はうちのリビングで、宙に漂っていたり、むじかの散歩コースの公園の端で佇んでいたり。ニンゲンとは違う存在だという認識ははっきりしているのだが、決して恐ろしい存在ではないらしい。「妖精をみた!」と言って大喜びでうちに駆け込んでくるような人だから、ニンゲン以外の存在が見えてもちっとも不思議ではないな、ぐらいにわたしはずっと思っていた。わたし自身も、ほかの人が聞こえない「音」を聞いた経験をしたこともあったし…
 それを興味深げに聞いていたHさん。口許に少し笑みを携えながらわたしに「一つ話してもいい?」と口を開いた。…AちゃんとNがまだ二人で一緒に学校に通っていた頃、かれこれ6年以上も前のことになるが、Aちゃんはわたしのうちの玄関前で、見知らぬ小さな女の子をよく見掛けていたそうだ。それはニンゲンではない存在。その女の子はそこで、Nを待っていたらしい…
 それを聞いて二人で「うわーーー!」と叫ばないほうが尋常でないだろう。鳥肌が立った。今書きながら改めて鳥肌がたっている。
 Aちゃんは自分のその能力を家族以外には明かしていない。他人に言ったところで、信じてもらえるはずもなく嘘つき呼ばわりされるのが関の山だろう…ぐらいのことは理解していたのだろう。
 しかし、その女の子は誰なんだろう。きっとこころが薄汚れたわたしなんかには、見えない存在なんだろう。
 うちに帰り、その話を丸ごとNにした。Nはもちろんとても驚いた。そして非常に嬉しそうに「あの子は誰なのかなぁ」とつぶやいていた。

2.01.2008

ねこ④


これはceleste(チェレステ)



 taceがやって来てその後は、かなり「なし崩し的」に、celesteとnotaがやってきた。「ここまで入れちゃったんだから、兄弟全員入れてしまおう」と、Nとわたしの意見が一致しないわけがなかった。taceが入院しているタイミングでcelesteが避妊手術を受けるために入院した。
 初めて女の子を迎えるに当たって少々緊張していた。なぜなら、cantoの去勢手術を終えていないため、そろそろ発情期のcantoは、毎日毎日外に向かって吠えている状態だったのだ。ねこに「吠える」という形容はいかがなものか、と思われそうだが、実はcantoは「吠える」としかいいようのないような鳴き声を持っている。信じられない人は是非我が家に聞きに来てもらいたい。大いに納得していただけると確信している。
 いざcelesteを迎え、ねこ部屋にcelesteを解放した時。cantoは物凄い勢いでceleに突進、散々においを嗅ぎまくって果てはceleの上に乗ってしまう始末。Nとわたしは呆れ気味に「celeはもう産めないんだよ」と苦笑いした。celeはだいすきなcanto(兄者・訳N)に会えてひたすら嬉しそうに見えた。cantoのしつこい攻撃にもひるまないでいたが、やはりちょっとうっとうしそうにも見えたので、ひとまず可哀想ではあったが、ケージの中にいてもらうことにした。
 その2日後くらい。去勢手術を終えたnotaもやってきた。notaは本当ならばtaceが来るタイミングでやってくるはずだったのだが、如何せん負傷したtaceを優先せざるをえなかった。そんなこちらの都合で群の最後の一人にさせてしまった。捕獲にあたってくれたNSさん曰くnotaは、抵抗することもなくすんなり籠の中に入ってきた…ようだ。「みんなのとこに行くんだ」という諦めのような期待のような気持ちがあったのかもしれない。
 迎えるねこが5匹目ともなると、こちらも勝手しったるもので、ねこべやにキャリーを運んで行き、キャリーの扉を開けて、後はねこたちだけにしておいて、本人が出てきたくなったらどうぞ出てきてください…といういつもの方法で、notaにも対応した。
 しかし、どうも様子がおかしい。tace、tono、cele、とその度に目の当たりにした光景、「兄者ーーー!(訳・N)」と叫びながら、cantoにダッシュしていく姿がみることができない。notaが待てど暮らせど、キャリーから全く出てくる気配がないのだ。
 さらに、cantoの様子も変だ。未だかつて、聞いたことも無いような「音」をnotaに向かって出している。そして、体を縦に大きく伸ばすような仕草でnotaが閉じこもっているキャリーの前をゆっくりと行ったり来たりしている。

…cantoはnotaを威嚇をしている。ねこ素人の我々の目でみても、明らかだった。

 余りにもキャリーから出てこないnotaに業を煮やし、Nがキャリーの上部を取り外したその時。cantoがnotaに飛び掛った。パニックに陥ったnotaは部屋を駈けずり回り逃げ惑った。追いかけるcantoを制止しようとしてcantoを捕まえる際にNが負傷。cantoの名誉のために一言言っておくが、cantoは決して意図的にNをひっかいたワケではなかった。notaに向かおうとして瞬間にNがcantoを抱きかかえたので、勢いでひっかいてしまっただけである。cantoを捕まえ、ケージの中に入れた。
 一騒動であった。おまけにわたしはこの騒動の最中、外出していなかったのだ。帰宅して、notaの様子をみようとねこ部屋を覗いて、驚いた。ケージの片隅に小さくなって座っているcantoがいたのだから。cantoはノラ出身のくせに、非常に神経質でキレイ好きで、ケージの中に散らばっているねこ砂(おもにcanto自身が撒き散らしたのだが)を避けるように、小さな清潔なスペースに収まろうと必死だったのだ。かわいそうで、すぐさまcantoだけをわたしの寝室に移動した。最初、canto自身もこの突然の小引越にとまどっていたのだが、間もなく落ち着き、わたしの傍らで丸くなった。翌日からは、tace、cele、notaたちとcantoの別居生活が始まった。そして、わたしは慌ててcantoの去勢手術の予約に獣医に走った。
 ひょんなことから、notaとcantoのどうしようもない不仲をある人に話したら、なんとその人が「notaをしばらく預かっていい」と提案してくれた。Nに早速伝えたところ、預かってもらうならnotaではなくてcantoの方がいいのではないかという意見。確かに一理ある。notaは様々に不信に陥っている。cantoはノラ時代から愛想がよくて、どんなニンゲンにもその持って生まれた愛嬌という武器で攻撃してきた大物だ。預かってくれるといってくれたH氏への負担も、cantoの方が軽いことは目に見えている。cantoがいない間にnotaも、気心しれたtace、celeと共に我が家の生活にも慣れてくれるかもしれない。しばしの間cantoと離れ離れになってしまい淋しい、というわたしたちの一方的な感情を除けば、預かってもらえるならcanto…
 そうして、期限は去勢手術の前日まで一週間、H氏にcantoを急遽預かっていただくことになった。



これはnota

1.28.2008

大きくなったら…

 今日はねこ話は一休みで(実はまだ終わっていない)
 
 わたしが住む地域のケーブルテレビの目玉番組に「わくわく一年生」というものがある。毎年春以降に、市内の全小学1年生が将来の夢をひとりずつテレビカメラの前で発表し、それがオンエアされるのである。全ての一年生を見られるのだ。いい番組だ。
 が、毎年見ていて疑問を覚えずにいられないのは、将来の『夢』を問われているはずなのに、大抵のこどもたちの口から出てくるのは『職業』。日本人の勤勉さは、着実に脈々と受け継がれているのか、と妙な気分になる。
 そしてもう一つ。その『夢』の中にやたら「ペットショップ」関係が登場するのだが、やはりここでも虚しさ半分憤り半分の居心地悪い気分になってしまう。
 そもそも、「いのち」に値段をつけて、おまけにセールまでしてしまう、ペットショップというのが、わたしは虫酸が走るほどきらいだ。Nは幼い頃から犬がありえないほどだいすきだったのだが、そんなわたしの個人的な生理的嫌悪のせいで、デパートの犬ネコを売っているような場所でもたやすく眺めさせてもらうことはできなった。
 なんの邪心もなく、いのちを売り買いする仕事を『夢』と言えてしまうこどもが大量に育っている日本という国に対して、心底怒りが込み上げてくる。今の日本の大人と呼ばれている人々は、未来の宝物であるこどもたちに、そんなことしか教えてあげられないのだ。 経済至上的な観念からいい加減離脱しないと、この国は確実に滅びる。

 ちなみに、Nが発表した夢は、「地球を知る博士」。Wは「世界を旅する人」…それはそれで親として少々気恥ずかしかったが、改めてわたしはこの子たちを誇りに感じたのだった

1.26.2008

ねこ③

 トーノが亡くなってしばらくは、気持ちの整理がまったくつかず、後悔と懺悔と悲嘆と憎悪とが、わたしの全身を満たしていた。「いのちの価値」について毎日悶々と考えていた。やっとどうにか、考えるだけでは何も生まれてこない、次は誰をうちに迎えようか、と前向きな思いが再び芽生え出したと同時くらいに、事件が起った。
 群れに突然現れた大きな男の子ねこが、群れの一人にケガを負わせた。ここでもまたNSさんの活躍により、ケガをした子は即座に病院に連れていかれ、事なきを得た。が、こちらが予測していた以上にケガは深く、3針ほど縫わなければならなかった。当座は入院していられるので大丈夫だとしても、退院したての子を寒くなり始めた外の、あまり清潔とはいえない環境下に放り出すことはしたくない…「うちに入れよう」。決断に時間はかからなかった。

 外傷の手当てとともに、去勢の手術も終えたtaceは、このような過程を経て我が家にやってきた。夏の夜中、わたしが外をふらふら歩いている時に遭遇した、cantoと共にいた三人のうちの一人がtaceだった。その時はまだ、片手で乗り切りそうな大きさだったのだが、NSさん始めこの界隈でのらねこたちにご飯をあげてくれている人々のお陰で、taceはすっかり成長していた。cantoとは正反対の性格、ご飯をもらいつつもニンゲンには警戒心をむき出しで、決して自らニンゲンに近付くことはなかったので、わたしたちに果たしてこころを開いてくれるのかというのが非常に不安だった。
 しかし、我が家のねこべやでtaceが入っているキャリーの扉を開けた瞬間、そんな不安は宇宙の彼方に飛んで行った。taceはcantoの姿を見るや否や、まるで「兄者ーー!」(訳・N)と叫んでいるかのように、猛烈な勢いでcantoの元に駆け寄っていった。そういえば、ノラ時代taceはcantoがだいすきで、いつもあちこちに放浪するcantoに、従者のようにくっついて歩いていた。久し振りに再会できたcantoに、taceはしきりにすり寄って体をぶつけ、精一杯喜びを表現しているかのようだった。cantoが近くにいる安心感によるのか、難なくわたしたちにもこころを開いていってくれた。
 tonoの死を経験したからこそ、怪我を負ったtaceを迎え入れることを即決できた。絶対こんな形で死なせたくなかった。それが例え、わたし自身のエゴ、ひいては、「人間のエゴ」として第三者に受け止められたとしても。目の前にいる「いのち」から、困っているというメッセージが自分のアンテナに届いてきたら、敏感に素早くキャッチしてアクションしたい。

 ニンゲンの発達した頭脳や複雑な感情は、きっとそうするために授かったものである、と信じてやまない。



1.16.2008

ねこ②




 名前はtono。10/31に星に帰った。

 cantoが我が家にやって来てほどなくしてから、NSさんから連絡が入った。入院していた子が出てくるのだけど、完全に回復していないからしばらく預かってもらえないか…と。

 cantoがいた群れは、わたしたちが群れを見に行くようになったころ、総勢7名で形成されていた。NSさん情報によると、全員同じお母さんから生まれた異父兄弟らしい。NSさん、只者でないのは、近所のねこたちの個体識別だけに止まらず、母親、生まれた月等々、それぞれの「子」の詳細をしっかり認識していることである。ねこたちへの、並大抵ではない大きな愛を感じてならない。その血族のみで作られていた群れに、ある日突然小さなしろねこがやってきた。それがtonoだった。
 血がつながっていない故か、群れの子たちからは、ある程度の疎外や威嚇やいじわるをされていたものの、tonoは非常に逞しく、ふてぶてしいくらいの図々しさでもって、この群れに強引に入り込んできた。群れの子たちも毎日一緒にいると慣れるのか、段々とtonoをいじめることはなくなってきた。
 ある日、群れを見にいくと、明らかに具合の悪そうなtonoの姿が目に留まった。目が、目やにか何かで開きにくそうに見えた。そしていつもなら、食べ物を出すと、群れの先住人たちを押しのけて我先に一目散に駆け寄ってくるのだが、その元気もなくグッタリした様子であった。その日はNと、心配しつつも、そのまま様子のおかしいtonoを残して帰ってきた。
 その翌々日くらいにNSさんから連絡が入り、tonoを病院に連れて行ったのだけど入院する場所がなく、点滴だけ受けて連れて帰ってきたとのこと。が、状態は一向によくならず、見かねたNSさんが、入院のできる違う病院に連れて行ってくれたのだった。

 このような経緯があった上で、急遽、tonoも我が家に迎えることになった。いつも、先手で動いてくださるNSさんのお願いがきけないわけはない。喜んで、この子が、tonoが、元気になるためにわたしたちも手を尽くそうと思った。 
 我が家に迎え入れたものの、tonoは四六時中グッタリしていた。うちに到着したばかりのときは、興奮していたのか、Nの膝にいきなり乗っかってゴロゴロしたり、cantoが高いところにいたら、自分の身の程も考えずに思い切りジャンプし、そして届かず家具の縁に体を打ちつけ落下してみたり、大きくアクションしていたのだった。しかし、食べない。一度だけご飯を食べたのだけど、その直後嘔吐と下痢をし、それから一切食物を口に入れようとしなくなった。そしてただひたすら気だるそうに横たわっているだけのtonoしか見ることができなくなった。
 心配になり、再び病院へ連れて行った。即、入院となった。その日の夕方様子を見に病院へ行った。いろんな検査をしてくれたのだけど、原因が全くわからない。実は体温も相当高かったみたいだ。が、わたしの目にtonoは、ほんの少しだけどうちにいた時より元気そうに映った。根拠のない「だいじょうぶ」で、胸の中をいっぱいにしておかないと、やりきれなかったからかもしれない。翌日も会いに行った。しかし、退院させてもらえなかった。獣医さんが言った「状況としては、厳しいです」という言葉を、あまりにも軽く受け止めすぎていた。帰り際、頭を撫でるわたしを、左右色の違うそれはきれいなオッドアイで、真直ぐに刺さるような眼差しで射抜き、「にゃあ!」と大きな声で鳴いた。

 その時が、動いているtonoを見たのが最後だった。

 全世界を恨んだ。憎しみで、こころが潰れそうになった。体の奥のほうから、涙という形で悲しみがとめどなく溢れてきた。人間であることがいやで仕方なくなった。どうして?tonoはあんなに苦しい思いばかり課せられて死ななければならなかったのか。生まれてきて死ぬまで、ずっとずっとずっと一人ぼっちだったtono。あの夜どうしてわたしはtonoを引き取って連れて帰って来なかったのか。獣医さんの言葉をもっと真摯に受け止めなかったのか。
 動かなくなったtonoを迎えに病院に行き、tonoに対面したわたしとNは同時に「ごめんなさい」と謝っていた。

 目に見えるtonoが我が家にいたのはたったの4日間だけだった。しかし、あの子がわたしたちに提示してきたものは深く広い。まだまだ答えの出せそうにないものばかりだ。ただ、ほんの少し出せたわたしたちの答えは、「tonoがいたから、今のわたしたちがある」ということ。わたしたちの中にtonoは生き続けている、ということ。


 そして、「いのち」は素晴らしいということ。
 

1.15.2008

ねこ①

 なによりも先に、昨年ハマったものたちについて。


 「ねこ」
 断然、犬の方が大好きだったこのわたしが、もののみごとに深くハマってしまった。きかっけはたくさんありすぎて、どこから攻めていけばよいのやら。長くなることを覚悟で、順を追って説明してみる。
 昨年の夏、わたしの住むマンション敷地内で、とあるのらねこが子育てをしていた。毎日目にするこねこたちのかわいさといったら!こねこの視覚的なかわいさは、殺人的だと感じた。そして、とても曖昧に、この親子全員をうちで保護して、家族として一緒にくらしてみたいと思った。

 この頃わたしは無職で、毎日のようにブラブラしていた。夜更かし朝寝坊の代表選手になっていた。そんなある日、というより、ある夜中、くだらないことで心底頭にきており、近所のファミレスででも軽く飲もうと、頭冷やしがてら表に飛び出した。ふらりふらりと歩いて、うちから200mも離れていない道路を通り過ぎようとした時、前方でねこがその道路でゴロゴロと自由に寝転んでいるのが目に飛び込んできた。3人もいる。以前なら、「かわいいな」と思いながらも横を素通りしていっただろうが、なにせマンション内の親子ねこたちのかわいさに相当やられ尽くされていたわたしは、思わず立ち止まり、低くかがんで、手招きして、「おいで」とねこを呼んでしまっていた。すると、3人のうちの1人が、こともあろうか、手招きに乗じてこちらにトコトコと近寄ってきた。その上、わたしの足元にスリスリしながら、怖ろしくかわいい声で「にゃあ」と鳴いた。それも上目遣いで。…わたしは完全にノックアウト。早急にエサを飼いに走り、3人に与えた。
 翌日その顛末をNに話した。犬だいすきで、すきが故に、犬の骨格から内臓の位置、犬種による性格のちがいなど、犬に関しての膨大な情報をその懐に抱えるNであるが、彼女もマンション内の親子ねこに軽くやられており、わたしの話を聞きながら、そのスリスリねこに会いたいと洩らしていた。
 しばらくたったある日。Nが件のスリスリねこに遭遇する事になった。更に幸運だったのが、スリスリねこをおもしろがって追跡していくうちに、のらねこたちに毎日毎日ご飯をあげているNSさんに出会うことになったのだ。このNSさん、ねこたちにご飯をあげるのみならず、「地域ねこ」のボランティアにも協力しており、のらねこたちの避妊・去勢、通院、揚句、ご自宅で2人ひきとったとのこと。NSさんと出会うことで、わたしとNの近所の「家なきねこたち」へ注ぐ視線が、大きく変化したことは間違いない。
 それからというもの、NSさんがねこたちにご飯をあげる時間帯に、わたしたちはそこへ通うようになった。そして、NSさんののらねこへの深い深い愛情を聞くうちに、わたしもNもとても自然に「力になりたい。ねこたちを守りたい」という思いを膨らませていった。「誰か一人でも、うちで保護したい」と思うようになるのには、それほど時間はかからなかった。
 我が家でねこを家族として迎えるに当たって、大きな問題が2つあった。一つは、先住犬であるmusicaがねこに対して、異常に興奮するということ。そして、もう一つは、わたしのねこアレルギー。その二つが、高まった「うちに迎えたい」熱に対して、大きなエネルギーでブレーキをかけていた。
 が。ある日、いつものようにねこたちに会いに行った帰り道に、「二つの問題」と「一つの命」を天秤にかけることが唐突にバカらしく感じてしまった。「命」の方が大事にきまってる、と絶対的に感じたのだ。こんな当たり前のことがなんで今までわからなかったのだろうか、とさえ感じた。「なんとかなるよ。ひとまず誰かをうちに迎えよう」と伝えた時、Nは大喜びした。NSさんに連絡をとり、とりあえず、スリスリねこを捕獲→検査入院してもらえるようお願いした。そして、10月13日、心の中でスキップしつつ(実際37歳のおばさんがスキップしてるとコワイ)病院に迎えに行き、晴れて、スリスリねこことcantoは、我が家の一員となった。








お題の通り

あちらこちらに無暗に広がってしまう自分の思いを、この場所に書き付けて、留めていく。「今」という時間に存在する、気分の動きや揺れを丁寧に表現し残していきたい。時間を経て、自らその記録たちを見返した時、わたしはどう感じるのか。それも楽しみだ。