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11.07.2009

今更だけど、夏の米国雑感①

 ここにWが参加してきた→world hiphop dance championship
で、わたしとNはお供してきた。


 パッケージされた海外旅行は初めてに近い。高2の冬に2週間ホームステイでサンディエゴ近くを訪れた時は限り無くパックツアーに近かったかな。ラクだな。ほんとうにラク。先導してくれるヒトにほいほいついていけばいいだけなんだもん。ホテル内で困ったことがあっても、その先導人に助けを請うだけでいいのだもの。わたしの脳内の貧弱な英語のボキャブラリーの中から、死に物狂いで『これだ!』という単語を選び出すという作業をする機会が、圧倒的にないんだもの、ラクに決まっている。にしてもだ。やはり英語だけはしゃべれたほうがなにかにつけお得だな、と改めて痛感した。
 そのことは、アスリートとして参加したWのほうがより切実に強烈に実感したようだ。お気に入りのダンサーがいても、気軽に声をかけられない。すごいなと思うダンサーがいても自ら積極的に褒めるための声をかけられない。逆に、他国のヒトに『キミのダンスはワンダフルだ』と褒められても気の利いた返答ができず話を膨らますことができない。コンペティションのMCのおっさんが強力におかしいギャグを放って会場が大いに湧き上がっていても、なにがおかしいのかさっぱりわからない。……等々、国内で踊っているだけでは経験し得ないだろう屈辱感や劣等感を味わったようだった。
 ただ、音楽家同士が言葉は通じ合わなくとも、音を出せばコミュニケーションが取れるように、ダンサー同士も一たび体を動かせば互いにコミュニケイトできてしまうんだなこれが。大会が終了してからのセレブレーションパーティで、勇敢にもひとりであちこちの輪の中に飛び込んで踊り、いろんな他国のヒトたちとハグしたり握手しているWを眺めていたら心底羨ましくなった。あー。言葉とは、なんともめんどくさくてウザいツールなんだ、なんて思っちゃったりしちゃったりするわけだ。
 でもでも。それでもやっぱり、英語だけは操れたほうが良い。絶対お得。せっかくニンゲンに生まれてきたのだし、言葉を介してのコミュニケーションも大切にしなきゃだ。英語という言語を身近に置くだけで、自分の視界がパーッと広がるのは事実だ。おまけに、HIPHOPダンスが生まれたのは英語圏。よりその文化的背景に迫るためにも、英語的な発想力や想像力も必要になってくるのではないか。
 帰国したWが、何よりも先にまず鍛えよう!と思ったのは英語力らしい。本人が言っていたから間違いない。そして、笑えるんだが、着実に学校の英語の成績が上がっているという…


team JAPAN 大集合の図!

10.31.2009

この一か月のワタクシ

 ここで書くことをまるっきり放棄してしまっている。一所懸命に『何か』を書き連ねるには、それなりに時間と労力が割かれる。その時間がもったいなくて、書くことから離れていた。
 ならば何に時間を費やしていたのかというと、読書であった。一か月で10冊読んだ。全てフィクションで小説。全て日本の作家さん。ついでをいうと、全てN所有の本で彼女に「読め」と差し出されたもの。全ておもしろかった。
 年頭に立て続けに読んだ3冊の本が、あまりにも重く、極めて正しい内容の本なのにもかかわらず、精神的にへこたれそうになった。全てノンフィクション。おまけにハードカバー。物理的にも重かったわけだ。
 その後意図的に活字から離れた。文字から受ける打撃を避けたのだ。本をよみふけると、確実に簡単に現実逃避ができるのだが、いかんせん、こりゃ逃避しちゃいかんだろうという現実が次から次へと、眼前に現われてしまった…という事実もあったのだ。
 夏を過ぎたら、Wの入院日の心配以外に、こころを重くするような現実はわたしの目の前に現れなくなり、日々をゆるゆると過ごすようになっていた。
 そんな生温い感じの日常を継続するとある日、Nに「読め」と渡された本。宮部みゆきの「あかんべえ」だった。おもしろかった。一気に読んだ。そしてわたしの読書熱≒現実逃避が一気に噴出した。
 そこで気付いたこと。現実逃避ってば、厳しい何かに直面している時には案外できないものなのね。今みたいに、毎日が整然と進行していて、その進んで行く流れの中に身を任せてゆるゆるぬくぬくと生きている時のほうが、俄然したくなるものなのね。…要するに、悩まなきゃならなかったり、落ちてくる涙を拭うことすらできなかったり、無差別にニンゲンが憎らしく感じたり、という現実が存在しない日常は、『退屈』なんだな…苦笑…みたいな。こりゃあフィクションの世界を借りて、悩んだり泣くしかないじゃないか!なんたって、暇なんだから!
 しばらくは、読書バカ、このまま継続模様。今一番読みたい作家さんは、芥川。だがうちには一冊しかない。幸い、会社の近くに図書館あるんだな。今度行ってみよ。

9.14.2009

とにかくすごかったのさ…

 せっかくWのお供で渡米し、HIPHOP DANCE CHAMPIONSHIPを目の当たりにしたにもかかわらず、ここでそれに触れられなかったのには、大いに訳があるわけで。
 まず、渡米10日ほど前。taceが尿結石になった。トイレにいったりきたり、入ったり出たりしているのを目撃し、急遽病院へ連れて行き判明。薬をもらい治療最中に、結構な量の血尿をし、パニクって大慌てで夜間診療で無理行ってちょっとばかし遠方の病院で診察をしてもらうが、膀胱の中がすっからかん(尿がない!)で、尿検査さえできずに、なにもしてもらえず、ただ先生に励ましてもらい帰宅する。渡米前のいたーーーい出費。
 そして渡米3日前。朝、出勤前にネコたちにご飯をあげていたら、notaが激しくくしゃみをしていた。どうしたのかなー、という軽い気持ちでいた。ついでに、taceが、普段ほとんど鳴かないくせに、一人大絶叫していた。結石のこともあって甘えんぼさんになっちゃったのかなー、とこれまた軽く流した。だが、若干の胸騒ぎがしたので、まだ眠っているNに「要観察」の旨メールをして会社へ向かった。Nはその日、世界大会用の髪型造りのためのWにお供して、とおーーーい所の美容院に行く予定になっていた。
 夕方、会社から出てきてケータイを見てびっくり!Nからただならぬ量のメールが届いていた。なんと!我が家のネコたち7人全員が、様子がおかしく具合悪そうで、非常事態なのよーーーーー!!!!というメールであった。とにかく、連れていけるだけのネコを病院に連れていくことにする。が、なにせ、みんなで7人。そんでもって、連れて行くためには捕獲せねばならないのだが、捕まえられるかどうか甚だ疑問な子がほとんど。状態の悪そうな子を優先して、頑張って捕まえて連れて行こう、と。いろいろ体に問題のあるスベさんがまず決定。この子は渡米中入院させる予定でいたので、そのままもう病院に泊まらせてもらうことにする。そして、一番ぐったりしていたnota。この子の捕獲は比較的ラクなのだが、果たして病院で先生を攻撃したりしないかが問題だったのだが、いや、これは連れて行かないとまずいでしょーなくらい衰弱していた。それから、結石中のtace。朝、この子が絶叫していたのにはワケがあったんだね…かーさんわかんなくてごめんよ…こいつも結石が心配で渡米入院を予定していたので、このまま病院にお泊り決定。あと、もう一人くらい…。比較的症状が軽症なcanto。こいつを他3人の代表として診てもらおう、ということで搬送メンバー決定。
 かくして、一気に4人のネコを病院に連れていくという暴挙を遂行するに至ったのだった。あぁ…快く診察を承諾してくださったいぶき動物病院の吉澤先生。本当にありがとうございます。
 診察の結果、風邪ということ。notaは予想通りかなり状態が悪く、インターフェロンと解熱剤を注射。taceも熱が高くインターフェロンを注射。cantoは比較的軽かったので痛いことはせず診察のみ。一人ずつ丁寧に診察してくださる先生が仏様のように見えた。
 居残り組みの分のお薬も処方していただき、入院組のスベさんとtaceを残して、帰途につく。
 ていうか、このネコの大搬送に惜しみなく協力してくれたH氏。あなたもある意味我々にとって神だよ(笑)。なぜあのタイミングで、仕事がなかったのよ。本当に感謝。
 翌々日。celeの具合が芳しくないというNからの連絡を受け、会社帰りに病院へ連れて行く。こいつはさーほんと厄介なんだよなー。だってさーマジで攻撃してくるからさー。でも、そんなことは言ってられないワケで、Nが死闘の末捕獲してくれ、これまた無理言って近所の獣医さんに時間外診察をしてもらう。そして、インターフェロンを注射。「ただの風邪なんだから、そんなにパニくらないの」とそこの先生には優しくなだめられたのだった。
 そんなこんなで、我が家のネコども全員病持ちとなり、はぁ……アメリカなんて行ってられるのかな…やっぱり残していけないよな…やっぱり残るとしたらわたしだよな…もうやってらんないよ…ばか…なんでこんなにネコなんか保護したし…ばか…わたしのばか…と、まあ、全世界を恨むに至った(笑)
 Nはと言えば、全員が風邪をひいたとわかった瞬間に自分が日本に残ることを決意したらしいのだが、celeを診察してもらった時に先生からかけもらった「ただの風邪なんだから…」という言葉にえらい勇気づけられたようで、「大丈夫!帰ってきてみんな死んでるなんてことはないよ!」と晴々した顔で、準備を始めていたのだった。
 準備というのは、わたしたちが留守の間の薬やご飯の小分け。小さなカップを大量に買い込んできて、黙々とそこにご飯と薬を分け入れて、日付を振っていた。というのも、ありがたいことに、留守中ネコたちの様子を毎日覗きに来てくれる人がみつかったのだ。近所のMちゃんと、ネコ仲間のNSさん。その人々が、迷わずご飯を与えられるようにという算段なのだった。
 
 7/29。わたしたちが、すこしばかり後ろ髪引かれながらも、安心してアメリカに旅立てたのは、獣医さん、Mちゃん、NSさん、そしてH氏のお陰に他ならない。本当に本当に心からありがとう!



 滞米中の諸々は後に記すとしてここではおもいくそ端折る。


 8/5。無事帰国。ネコたちはみんな生きていた。よかった。まだまだ全快とまではいかないが、出国時よりは元気になっていた。だが、スベさんだけはそうはいかなかった。風邪による結膜炎が悪化していた。どうやら角膜炎を起こしているようだ。かわいそうに…。もしかしたら目が見えなくなっちゃうかも、という最悪の診断まで下った。また手術?もうこの子にそんなしんどい思いをさせたくない。taceをお迎えの時に、スベさんは一緒には帰ってこれなかった。
 その翌日。Wのチームメイトの一人が、インフルエンザA型に感染していることが判明!ひえー!滞在中仲良くしていた、日本の他チームの子が、そういえば帰国時に高熱が出てウンウンうなされていたのだ。急いで、会社に報告したら、一週間出勤を見合わせてくださいとのこと。仕方ないか。結局、我が家は皆感染していなかったのだけど、Wのチームメイトは3人、他チームの子は10人感染していた。このインフルエンザ騒動のことをネコ仲間NSさんに話したら、「それは、ネコが全部かぶってくれたのよー」と言っていた。そうなのか。ネコたちはわたしたちの犠牲になってくれたのか。でもそうとしか思えなかった。
 ともかく、長い夏休みが突然舞い込んできて、内心ホクホクしていたのも束の間。8/7の昼過ぎに、腰から背中に鈍痛を感じた。長旅の疲れが腰にきたか、はたまた、滞在中の暴食がたたってわたしが増量したせいか、と湿布を貼りながら「整体行って来ようかな」なんて考えてる間に、ドンドンドンドン痛みが増してきた。あまりにも痛いので、家事一切を放棄して早めに寝る。が、寝ている最中も痛い。痛くて目が覚める。次の日はWがイベントで踊ることになっていたので、病院にも行けず、イベントへ。が、ずっと痛い。何をしていても痛い。立っていても座っていても、痛い。間断なく痛みが襲ってくる。なんなのよーこれはー!?と思いながらも、痛い。湿布もきかない。イベントから帰ってきて整体に向かうが生憎の休診…。泣けた。夜に向かって、痛みは絶好調!背面だけでなく、みぞおち辺りにも痛みを感じるようになってきた。「これ、ただの腰痛じゃないかも」と不安になる。痛すぎて寝ることもできないので、救急外来へ向かう。
 救急外来が込んでいて、待っている時間がとても辛かった。痛みを堪えるために無駄にウロウロしていた。そうでもしないと、叫びそうだったから。そのくらい痛かった。
 診察。一通りの問診、聴診、触診。血液検査。レントゲン。そして、CTを撮る。それも造影して。この病院Wが目一杯お世話になって、わたしの中では好感度ナンバー1の病院なんだが、にしても、救急外来でCTまで撮ってくれるのか!と感動したかったのだが、あまりの痛さにそんな余裕も出なかった。点滴をしながら、検査結果が出るのを待つ。もう夜中になっているので、正直眠いのだが、痛くて痛くて痛くて、全く眠れない。おまけに点滴につながっているので、好き勝手にウロウロもできない。辛かった…。
 検査の結果、なんということ、どこを探しても炎症反応がでていないとのこと。即ち、「痛み」の原因が特定できない。従って、痛みを取り除くための処置も処方もできない。えーーーーーまじでーーーーー(涙)。ということで、バファリンレベルの気休めの痛み止めだけが処方され、うちに帰ることになった。
 翌9日。この日もWはイベントで踊る予定になっていた。が、無理。痛くて行けない。痛み止めは全く役に立たず。みぞおち辺りの痛みが増しているように感じたので、薬局に胃薬を買いに行き飲むが、効果は無し。引き続き、痛くて痛くて痛くて痛くて、もーーー!わたし、痛いのに飽きましたーーーー!!!!と何度か発狂する。が、虚しいかな、痛みは治まってはくれなかった。色んな汗をかいて、体がべたべたして気持ち悪かったのでシャワーを浴びると、意外にも、痛みが和らいだ。それも、温度を45℃という強烈に熱く設定した方が心地よいのだ。夏のくそ暑い日にも関わらずだ。にしても、シャワーをかぶっている間のみしか痛みは緩和せず、ベッドの上で痛みと格闘し続けた。夜がきて、それでも治まる気配はない。半泣きになりながら、病院に電話して、またしても救急外来のお世話になることに。でも、結局、なにもしてもらえず。ただ、慰めてもらうのみ(笑)。この日も痛み止めを処方してもらい、そして、「ちょっと眠りたいでしょう」という先生の計らいで、睡眠薬を処方してもらう。
 なぜかわからないが、あんなにも激しくまとわりついていた痛みが、うちに帰るタクシーの中で少し軽くなっているような気がした。呼吸がラクにできる。タクシーの中で、ウトウトしたくらいだ。うちに着いて、痛み止めと睡眠薬を飲んだ。もう、日付は10日(月)になっていた。翌日張り切って、通常の外来に行った。再度血液検査をし、CTをもう一度撮るも、やはり原因はわからず。診察、検査を終える頃には、ほとんど痛みはなくなっていた。…結局、原因不明で、先生も首を傾げながら、この激痛騒動は終了した。
 その日の夕方。Wのチームメイトの母様が亡くなられたという訃報が入る。12(水)、母様のお通夜に参列した。
 その母様の訃報が入った時に、わたしは、なんだか自分の体の原因不明の激痛に、合点がいった。オカルティックに捉えるのではなくて、ただ単純に、「生命」が生まれたり消えたりする時には、膨大なエネルギーの動きがあるはずで、そのエネルギーの動きや波長に、わたしの肉体のアンテナが反応して感じ取ったのかな、と。母様が亡くなられた時間と、わたしの継続した痛みが和らいだ時間がほぼ合致するのだ。

 痛みから解放されてからのドタバタは、先に記した、クラタ騒動である。クラタが終わって、ようやく会社に行けたら、連日の残業祭り。まあ。次から次へと、よくもまあこういろいろと起こるもんだ。でも、この約一ヶ月の間のてんやわんやの中で、わたしは改めて、「感謝する」するということを教わった。そもそも「感謝」できる対象があるということだけでも、幸せなのだなぁと噛み締めざるをえない。わたしがわたしでいられることに、感謝。そしてそれは、わたしの周りに【ある】様々な存在のお陰である。
 
 また一歩、前に進むことができた。

8.16.2009

消えた灯

 8/14の15:40~17:30の間に、クラタは息を引き取りました。
 保護したものの、伝染性の病気が気懸りで自分のうちに入れることを躊躇して、いつも困った時に頼ってしまうH氏に預かってもらっていました。
 獣医さんから処方されたお薬と共に、最初は缶詰ご飯を必至の形相で食べていたクラタ。わたしたちが顔をのぞかせると、力いっぱいシャーシャーと威嚇してくれていました。預かってもらったその日の夜は、「クークー…」と、切なく悲しげな声で断続的に鳴いていたのも印象的でした。
 翌々日には、固形のご飯がもう上手く食べられなくなりました。うちからネコ用のミルクを持ってきて、錠剤の薬を全部粉々に砕いて、溶かして、ミルクに混ぜて飲ませるようにしました。わたしが顔をのぞかせても、シャー、と元気よく威嚇することもなくなってしまいました。瞳孔の開閉が鈍くなり、開いている眼差しが虚ろになり、もう恐らく見えてないんじゃないか…と容易に想像することができました。
 14日の昼過ぎ、ミルクをあげにH氏宅に。朝のH氏からのメールで、「昨夜一度、白目を向いたので、ああ、もうダメかなと思ったけど、持ち堪えた」との旨を聞かされていたので、H氏不在のH氏宅に向かう足取りは非常に重く、動かなくなっているクラタをあらかじめイメージしながら(そうしないと、いざ対面した時に発狂しそうだったから)、H氏宅に入りました。…あぁ。まだ息してる。よかった。クラタ、ミルク飲もうぜ!!!!
 ミルクを用意して、注射器でクラタの口へ運びます。そうすると、クラタは懸命にそれを飲もうと口を動かしてくれました。その健気な動作を見ていると、安直に【安楽死】を考えていた自分が恥ずかしくなりました。ミルクをあげながら、溢れる涙。口をついてでてくる言葉「ごめんなさい」。
 しばらく傍らにいて、H氏宅をあとにしたのが15:40。「クラタ、待っててね」と言い残して。
 17:30。H氏から電話。その瞬間に、クラタの死を認知。涙声のH氏。お花を買って、迎えに行く旨を伝えて電話を切りました。
 実は、H氏からの電話の直前まで、Nと二人でクラタをどうしようかあれこれ話し合っていました。いつも頼っているボランティアのHさんから「安楽死だけはやめてあげて」との助言をもらい、どんなにお金がかかっても、最善の医療行為を施してあげて、クラタ自身が自分で死ぬことをさせてあげよう、と結論付けていたばかりでした。信頼している獣医さんにしばらく入院させるという決断もついて、さあ連れて行こうと思っていた矢先でした。
 亡くなったクラタの顔は、想像してたものより穏やかで、なんだか救われた気持ちになりました。半眼半口、ってこんなかなーと…。まだ息をしていた時は、舌がずっと出ている状態で、口を開けて呼吸していたのですが、その口もきれいに閉じて、舌も口の中に納まっていました。
 誰もいない部屋の中で、そっと旅立ったクラタ。きっと、ニンゲンなんかが見てる目の前で、その瞬間を迎えたくなかったんだろうねー、ノラとしての意地とかプライドがそうさせたんだねー、とNと話しました。

 15日、昨日、火葬を終えて骨を我が家に連れて帰ってきました。やつはこの辺を徘徊していたので、ちょっとずつこの界隈にその骨をまいていこうかと画策中。実は我が家にいる「ハハ」はクラタの母でもあります。二年前わたしが住むマンションでこのハハが子育てをしていました。かわいいねー、とNと見つめていた子ネコたちの中に、実はクラタがいました。
 
 ひと月ほど前に買ったNのネットブック。買ってすぐにデスクトップに置かれた写真は、まだ子ネコ時代の、うちのマンションでお母さんの庇護下にいた、クラタの写真でした。Nがこの写真を、無造作に無意識にたまたまデスクトップに置いたのは、単なる偶然ではないんだろうなぁと今つくづく思います。わたしたちがクラタを呼んだのか、もしくは、クラタがここに還ってきたのか。
   

8.13.2009

死に逝く子




 現在わたしの傍らに、間もなくその時を迎えようとしている子がいます。8/11の夜、ひょんなことからうちの近所で保護。その時点で、全く自分で動くことができない状態でした。涙ながらに動物病院に電話。時間外にもかかわらず、快く診察をひきうけてくれた獣医さんに感謝。
 こんなにも衰弱して動けなくなった原因はともかく、この子が元気になってノラとして再び外をかけめぐることのできる可能性の低さを知りました。【安楽死】という選択肢がいとも簡単に脳裏に浮かぶのですが、Nは「自分で死ぬということをさせてあげよう」と。
 保護して3日。日に日に痩せて、元気もなくなっていくクラタ(行きがかり上そう命名)。命の炎が、少しずつ少しずつ消えていく様を、横で見守るという作業は、今まで経験した中でも最大限の精神的消耗を強いられることとなりました。
 トーノが亡くなった時、その瞬間そばにいられなかったことを悔やみまくりました。が。こうして、旅立ちに向かうのを見続けるのも、苦しいですね。
 

 命は、終わったら、どこへ行くのですか?誰かわたしに教えてください。お願いします。

8.11.2009

喪失

一番、失いたくないものは、なんですか。

その「失いたくないもの」へ執着することは、いけないことではないですよね。

失って初めて気付けること、ということもあるのですが、

一生そんなことに気付けなくてもいいから

失いたくないものが、あります。

失わなくて済むなら、悪魔に魂を売ってもいいくらい。


尊い光が、一つ、目の前から消えました。

この現実を、受け止めるには

まだまだ、わたしは、弱くて浅はかで至らな過ぎ。

自分というニンゲンの卑小さを

痛いほど思い知らされるだけです。


ただ、待っててくれて、ありがとう…

と伝えたいです。


ありがとう。

5.06.2009

これも、一種の試み

 えらくお世話になっているネコ保護ボランティアのHさんからのお願い。ずっと入院していた黒にゃんこ(未熟児、体に異常有)が無事退院するということで、預かりを頼まれた。Hさん直々のお願いを断る理由はなにひとつみつからない。ミケの一件で悲嘆に暮れていたわたしとNは、二つ返事でOKした。手前勝手ないかにもニンゲン的な発想(byもののけ姫、多分)なのだが、この預かりがミケへの弔いになるんではないか、と。…書きながら、やっぱり『いかにも』と感じ恥ずかしい。
 名前は「すべ」に決定。命名理由は省略。ヒントは「奇跡」。こいつ、本当に奇跡の子なのだ。先天性の奇形だったらしく、おしっこの出が悪いのでずっと膀胱炎を疑われていたのだが、あまりにも治りが悪いので膀胱造影をしたところ、お医者さんびっくりたまげた!なんと、膀胱のほかにもうひとつ「袋状」の何かがあったのだ。そこに尿が無駄にたまってしまうので、おしっこの出は悪く、炎症も治まらなかったということらしい。お世話になった獣医さんが目一杯手を尽くしてくれ、手術を経て、すべは無事生還し、現在我が家でぎゃーぎゃー鳴き喚いている。
 鳴き喚かれることには、ハハを通して慣れ切っているので全くもってノープロブレム。性格もとても良い。撫でられるの大好き、他のネコたちにも怖気ない、食欲旺盛、遊ぶのだいすき、…なんだが、くさい。非常にくさい。ありえないぐらいくさい。一人で動物園気取りなくらいくさい。何故かと言うと、おしっこうんちの調節がうまくできないらしく、頻繁におしっこしては挙句、その上でスヤスヤ眠っていたりするからだ。うんちは踏み潰し、体中うんこまみれ。ついたミドルネームは、ずばり「うんこ」。あぁぁぁぁ…貰い手は見つかるのか!うんこ!里親さん募集しています。地味に。いろいろ問題ある子なんだが。ほんっとに良い子なんだが。誰か、この子を終生愛してくれないだろうか。



動きがカント以上に異常にうにょくて、ぶれた写真しかない…のだ。

試み

 新たにユニットを結成してみる。本日はリハ兼練習。もっと完成度を上げていかねば。メンバーは橋本学、W、WのチームメイトのAちゃん。ドラムは輪郭、ダンスは色彩のイメージ。ステージを踏める日を目指してわたしもがんばろ。



5.02.2009

…やっちゃってから

 はや一ヶ月が過ぎた。実はこの2週間ほど、切なくやりきれない負のカオスに陥っていた。原因は言うまでもない、ネコ。それも外ネコのミケ。ミケはうちから出した地域ネコ第一号の子だった。うちの外に出ればいつでも会える、そういう子だった。
 4/21、仕事が終わりケータイを見ると、Nからの留守電。わたしが仕事中だとわかっていながらやつが留守電を残しているなんて、ただごとではないと瞬時に思った。留守電の内容は、「昼間ミケに会ったら、後ろ足をケガしており、それがどうにも酷い感じで、すぐに追っかけようとしたのだけど、他の馬鹿オスネコに邪魔されて捕獲できなかった」というものだった。焦る気持ちを抑えながら、Nに電話し詳細を聞いた。話を聞く限りでは、相当の重傷に感じられた。急いで帰宅する。
 その日は、夕方から生憎の雨。溢れそうな涙をこらえながら、Nと二人、夜の闇の中、ミケを探し回る。痛いだろうに、苦しいだろうに、お願いだから捕まって、そんな気持ちが体に満ちて気が狂いそうになっていた。ひとしきりミケのいそうな場所を探し回って、諦めてうちに戻る。
 翌日も仕事から帰ってから、探し回る。同じマンションで、ミケに寝床を提供してくれている方のお宅にも伺う。ハハぎうにうトカタを捕獲の際に知り合い仲良くなった、やはり同じマンションのおばちゃんにも一声かけておく。ミケを知るみんながみんな、昨日今日とミケの姿を見ていないと口を揃えて言う。焦る。
 更にその翌日、朝、市の清掃局に電話をする。ミケ柄のネコの死体を収容しなかったか…していない、と市。そして、近所の動物病院に電話をする。治療をしなかったか…同じく、していない、と病院。Nが最終目撃してから既に3日目に入っていたので、もし死んでしまったのなら死んでしまったという認識をきちんとしたくて、必死だった。その日も、夜、Nと近所をふらつき探し回る。

 そして今に至る。一度、NSさんから、Tさんという方が仕事に行く途中にミケに会って餌をあげた…、という情報が入ってきて、思わず喜んだ。が、今思うとそれはきっと違うミケ柄の子だったに違いない。なぜなら、4/29の朝、道の向こうを横切るミケ柄ネコを見つけて、ダッシュしてその子を確認しにいったのだが、違う子だった。ミケだけどミケじゃなかった。おまけに、早朝のいつもの餌場には、ミケは一度も現れていないのだから。
 姿を見なくなって既に、10日が経過してしまった。Nとわたしの中では、もうミケは星に帰ってしまったのだな、という強引な折り合いをつけてしまった。イヤだけど。そんなの絶対許せなくて、こうやって書きながらもナミダがこぼれるぐらい、イヤだけど。外に出て、かつてミケの姿を見かけたことのある場所を通ると、苦しくて。
 お姫様みたいな子だった。無愛想なわけではないが、決して媚びず、凛としていた。そしてとてつもなく美人だった。どうして、家にいれなかったんだろう。後悔してもしきれない。なんであの子だけ、外に出してしまったんだろう。ごめんね。ミケ。ごめんなさい。わたしのせいだよ。
 痛かったでしょう。苦しかったでしょう。わたしたちの前に出てきて助けを求めればよかったのに。きっとあなたのプライドがそうさせなかったんだね。あなたがいなくなったマンション界隈は、なんだか空っぽな感じがするよ。おばさんはね、外に出るたびにナミダが出てくるんだよ。こっちにもそっちにもあっちにも、あなたの姿はあったからね。今は外に出るたびにあなたの幻を追いかけているよ。そして、この街が大嫌いになったよ。あなたがいないこの街が。

 大分自分の中で整理がついたと思いしたためてみたのだが、なんだ、まだちっとも整理なんかついてなかった。つらいだけ。苦しいだけ。まだ自分はそんななんだと、認識せざるをえない。


 最後の目撃者になってしまったNの胸の内は、こちら  

4.01.2009

…やっちゃったし


 3月28日のWのコンテスト、Wのチームが3位入賞…、ってまじでか?ありえなくね?そもそもエントリーチーム数が少なかったから、可能性としては入賞だってありえたのかもしれないが、にしてもだよ、3位ってあれ、世界大会行けちゃう権利もらえちゃうんだよな?な?間違いないよな?な?

 表彰の時、発表の際、そのチームが踊った曲が流れるんだが、瞬間わたしは訳がわからんかったね。はぁ、聞いたことあるね、うん、あるね、きみらこれで軽く一年踊ったよな、って。だって、全然びりっけつ覚悟で、全然緊張感もなく、絶対一番だろうかなぶんへの拍手だけを用意して、余裕で結果に耳傾けていたからね。そしたらば、前に座っていたチームメイトのAちゃんのお母さんが、ガバっと振り返ってきたのね。そして、Aちゃんの母と手を取り合って「ぎゃーーーーーーーーーー!」となってね。あとは、あんまり覚えてないぐらいのカオスに陥ったのね。一緒に来ていたNと二人喚きちらしたね。ありゃすごかったね。

 ともかく、まさかまさかの入賞で、世界大会(開催@らすべがす)に行くのかもチームがどうなっていくのかも、何もかも混沌としていてまだわからない。だって、あれ、去年の3月末に、Wはこのチームのオーディションに受かって狂喜乱舞していたのだもの。今年はまた違った形で狂喜乱舞したけれども。このチームは一年ごとにオーディションしてメンバーが入れ替わっていくのだけど、今年はこのコンテストへの出場があったため、オーディションも4月末に大きくずれ込んでしまった。…果たして、どうなるのか。

 にしてもだ。彼女たちは本当に素晴らしかった。あの短い練習時間でよくぞここまでまとめ仕上げたとつくづく感心する。だってよ、他の常連チームはよ、毎日のようにまるで部活動のようにひたすら踊ってるんだぜ。ほんとにほんとに、よくやった!この結果は、彼女たちの努力や強い思いの結晶だと思う。

 あまりにもNと二人で叫んで喚いて、後で、「われわれ、ちっとばかしうるさ過ぎたかね。他のおかーさんたち引いてなかったかね」と軽く反省みたいなことをやっておったのだが、翌日AMちゃん母からきたメールには「朝起きたら、ニューハーフみたいな声になっていて…」とあったので、わたしたちが冷静に他を見回すことができなかっただけで、みんなみんなあらん限りの声で叫び散らしていたのだな…ははは。まったくもって、それだけ信じ難いできごとだったのだ。はい。

 そして、昨年のディフェンディングチャンプのかなぶんは、やはり圧巻だった。最初から最後まで爆笑した。hiphopのダンスで爆笑って、すごいよな。お笑いのステージだってこうはならないぞ。すごい。でもおもしろかったんだもん。今年は全編マリオだったな。そして、去年ネクストにおった坊主がかなぶんにいた。おお。Wとおない歳なんだな。Wと同じで体はちっこいが、Wと比べもんにならんくらいグルングルン回っていた。やっぱすげーやー。

3.13.2009

こういうのが

わたしが捨てられないでいる、「ニンゲンの存在」への希望。わたしも希望を紡ぎだせるニンゲンになりたい。以下コピペ。


犬殺処分ゼロ 熊本市の挑戦
持ち込みの飼い主説得 HP開設し迷い犬紹介 生存率82% 地道な努力成果
3月12日15時7分配信 西日本新聞

 自治体が捕獲したり、飼い主から引き取ったりした犬の8割に当たる約11万匹が毎年、全国で殺処分されている。そんな中、熊本市は犬を飼い主に戻すことや新たな飼育者探しを続け、処分率を全国トップクラスの2割以下に減らしている。「殺処分をなくそう」を合言葉にする同市の取り組みが注目されている。
 悲しげな目をした犬が「ガス室」に送られ、殺される場面がビデオで流れる。熊本市動物愛護センターで週1回ある譲渡前講習会。保護された犬を譲り受ける飼い主は、必ず受講しないといけない。2年半前から始まった。ある日の受講者は女性2人。ビデオ放映後、獣医師の斉藤由香さん(27)がペットの面倒を一生みる「終生飼養」の大切さを講義する。
 「犬を飼うのは簡単ではありません。本当に飼えるのか、考えて決めてください」。参加した主婦(47)は「子どもを育てるのと一緒なんですね」とうなずく。
 かつて熊本市は一週間程度保護して処分していた。この“流れ作業”に変化が起きたのは2002年。終生飼養をうたう動物愛護法の理念を生かし、動物愛護推進協議会を発足させ、生存率を上げる取り組みを始めた。迷い犬を飼い主に戻そうと、保護した犬を紹介するホームページもこの年、開設した。
 センターの職員は憎まれ役も辞さない。娘と一緒に認知症の犬を連れてきた母親に「家族同然の犬を捨てていいんですか。娘さんはお母さんの背中を見て泣いていますよ」と翻意を促す。転勤などで犬が飼えなくなる場合、新たな飼い主を探すよう求める。それでも、引き取りを求める人には「犬を飼う資格はない」と非難することも。
 地道な努力が実を結び、熊本市の07年度の犬の引き取り数は1998年度の1割の52匹に減った。飼い主に返還する犬も増え、98年度に12.4%だった生存率が07年度は82.1%に上昇した。
 現在は保護する犬が50匹を超えた場合に処分する。年々、引き取り数が減っているため、保護期間が長くなり、餌代が増えた。増加分は市民やボランティアの寄付で賄っている。
 この試みが注目を集めている。獣医師の斉藤さんは山口県下関市からの派遣職員。熊本市の取り組みを知った下関市長が昨年4月から1年間、研修に送り出した。斉藤さんは「市民を説得する職員に感銘を受けた。このノウハウを下関でも生かしたい」と語る。
 熊本市は4月からセンターの職員が小学校で動物の命の大切さを教える出前授業も始める。命を軽んじる事件が後を絶たない今だからこそ「殺処分ゼロ」を目指す熊本市の挑戦が、ほかの自治体にも広がってほしい。 (熊本総局・野村創)
=2009/03/12付 西日本新聞夕刊=

3.09.2009

そして、終始ネコ




 ネコネタでしか文章書いてないな、いやだな、と感じる昨今。Nがよく「わたしネコきらいだし」と宣っておるが、その気持ち最近よくわかる。でもってその「きらい」はあくまでも表面的なものであることもわかる。
 ネコというフィルターを通して、ニンゲンの本質をわたしたちは見てしまった。それも、簡単に覆せそうにもない「邪」な部分を。ネコは媒介しただけなのだが、本音としては「そんなもん見せてくれるな、ばーか」という感じか。でもどのみち、わたしたち親子は、ネコを介さずとも、「この星からニンゲンを削除したい(自分含む)」という抗うことのできない、切ない感情に行き着いてしまっていたと思う。 
 極端なのだが、わたしはもう「ニンゲンのため」というこころを7割方捨てた。正直、どうなっても良いとまで考える。もちろん自分含む。にしてもだ。じゃあなんで「ニンゲン」が「ニンゲン」として、現れ、進化し、発展したのかという疑問は一向に晴れないのである。
 「ニンゲンのため」を捨て切れずにいる残った3割は、そういった疑問を晴らすための希望として、温存している。でなければ、わたしすぐに死ななきゃだしな。存在の『意味』なけりゃ消えるべきだしな。
 そして、答えを自分で掴むためには、もう行動するしかない。それも、前述したような10代の頃とは違い、一つ一つ確実に意味とか脈絡とか考えつつ。「人類滅亡」がこの星にとって最善の選択ならば、それは真摯に受け止めねばと思う。だが、まだまだ諦め切れないのだ。
 おおよそ世間的には、健全とは言えないことを考えながらも、なぜか晴々とした心持ちでいる。そこにちなんで、日々苦しかったり悲しかったり頭にきたりはしているのだが、まだわたしには「希望」がある。そこに向かう足はある。ここ数年で一番、前向きですっきりとした心理状態だ。それもこれも、わが家のネコたち、その他に出会ったネコたちのお陰なんだなぁと、本当は地団駄踏むくらい悔しいのだが、認めないわけにいかない。くそー!







3.08.2009

罪人という自覚

 「ネコの避妊去勢の活動やっていると言うと『偉いね』っぽいこと言われるけど、全然偉くないし」とNがよく激怒している。全くもってその通り。善いことをしているなんてこれっぽちも思ったことはない。わたしたちが如何なる心痛や逡巡や罪悪感やらを持ってその行動に携わっているか。平静を装いながら、胸のうちでどれだけ泣き叫んでいるか。謝罪し尽くしているか。よく考えてみれば、明白なのである。規模は小さくとも、これは人為的な生殖コントロールでしかないのだ。尊い生命のバランスを目茶苦茶にしかねない、愚かで破滅的な行為でしかないのだ。
 ではなぜ、そういう当たり前の真実を黙認しながらも、行動せざるを得ないのか。その答えは極めてシンプル。「無駄死に」する子を見たくないからだ。あまりにも個人的且つ感情的な答えで我ながら唖然とする。なんだかな。一番悪いのオレらじゃん?みたいな。でも、巨大な罪悪を背負いながらも、手を出さずにはいられない。死んで地獄に落ちようが、わたしは知らない。地獄?言うならば今わたしが存在する『ここ』以上の地獄があるのか、と。
 カントが縁で知り合えたNさんが、その友人から言われた言葉。「ネコの保護活動?それはあなたが裕福で幸せだからできるのよ」。わたしが友人のバカ夫から言われた言葉。「じゃああさちゃん、うちの周りのネコの避妊去勢も頼むよ」。くそ。こんな隣人が大方である世界が地獄でなくてなんだと言うのだ。
 以前、わが家から出した地域ネコ一号のミケ。昨夜久し振りにマンション敷地内で会えた。バッグの中の缶詰をあげた。聞くところによると、ミケは現在うちのマンションの一階宅の庭に寝床まで獲得しているらしい。心優しいその一階住人の方は、寒かろうと庭に段ボールを出してくれているようだ。うれしい。救われた気持ちになれる。お礼を言いにいきたいぐらい、うれしい。
 今年に入って読んだ本
人類が消えた世界(アラン・ワイズマン)→生きるということ(E・フロム)→沈黙の春(レイチェル・カーソン)

 まだまだ「答え」は出せないのである。

 最後にNのありがたいお言葉。「そんなに去勢するのが偉いなら、わたしは喜んでニンゲンのちん〇切り落としてまわるよ」…はい、皆さん、拍手!!!!!

3.07.2009

ついさっき


 出会った二人。ぽこちゃんいないかなーと、ふらふらと小さな通りに入り込んだら、いた。あまり幸せそうに見えなかった。涙がこぼれて仕方なかった。なにもできなくてごめんなさいと思った。その場から離れて、なぜかどうしようもなく腹が立って、通りすがりの電柱を殴った。左手の甲に青あざができた。

3.04.2009

花の女子高生

 先日Nが16歳になったのだが、しばしば自分が10代の頃を懐かしんでみたりする。
 いやー。恥ずかしいくらいとんがっていたな。うん。恥ずかしい。今のNの冷静さや論理的思考やらを、ちょいとばかしわけてもらいたいぐらい、感情のまま動いていた。勉強もした。バイトもした。恋もした。喧嘩(主に乱闘)もした。学校は辞めた。そして10代ではなかったが、大好きな友だちに死なれた。
 今も当時とかわらないぐらい、世の中を斜に見てはいるのだが、その頃は「じゃあこう行動しよう」という脈絡のあるアクションがとれなくて、なかなかにはちゃめちゃだった。今思い出すと、もうなんだか自分のことながら、可哀相に…と憐れみの念さえ湧いてくる。
 年齢を重ねて一番よかったなーと感じるのは「しょうがねーな」と諦められることが増えたことかもしれない。こうできることによって、心理的に非常にラクになれた。もちろん「しょうがねーな」と思えないことは山の如しで、おそらく世間的な38歳のおばさんたちと比べたら、怒りに満ち満ちた日々を送っているのだろう。につけても、楽チンになれて、10代の頃に比べれば毎日ウキウキな感じなのだ。そして「しょうがねーな」と思えない状況に遭遇した際に、暴力以外の方法で解決しようと努める丸さも賢さも、年齢と共に備わってくるのだ。歳を重ねるとは、ラクになれるということなのだな(曲解かな)。
 更にこの2年ほどで、また新たにラクになれた。というのも、主に自分の「生」「死」の概念が刷新されたからだ。これには、ネコたちとの出会いが大いに影響している。もちろん、わたしが現在10代ではないからこそ、到達できたのだが。こんなにも日々を楽チンに過ごせるなんて、昔は予想もできなかったわけで、Nと同年齢だった頃の自分を、今思い切り労いたくなる。
 今目の前にわたしのこどもとして存在するNを見るにつけ、「しんどいだろうなぁ」と思う。が、その「しんどさ」を取り除く術は、親と言えども持ち合わせておらず、あくまでもN自信に切り開いてもらうしかないのだ。だが、『大いなる怒り』の矛先は、わたしと同じ方向に照準が合っているようなので、もうしばらくの間はNのしんどいを少しは背負えるかもしれないかな。

3.01.2009

2/27N生誕記念祭


 ぽこちゃん。推定5、6ヶ月。Nの誕生日の日、会社帰りの地元駅で出会った。駆けていく後ろ姿が視界に入ったので、思わず「お、お、ちょっと待っておくんなまし!」と声をかけてしまった。そうしたらば、嘘みたいだけど、止まってくれた。そして振り返って、わたしの目を見て「にーにー」と言った。「お腹がすいてまーす!」と脳内猫語翻訳機が翻訳結果を出した。そうか。腹が減っては…だろうよ。だが、おばさん食い物なんも持ってないのよ。おばさんここから立ち去ったら、あなたきっといなくなるでしょう?「にーにー!」(お腹減ったよー)。わかった!ちょっと待って。今、使える16歳になりたて女子高生呼び出しちゃうから、少しだけ待ってくれ!「にーにー!」(ごはーーーん!)
 小雨が降りしきる冷たい夕闇の中、傘もささずにNは猫ご飯を持って駆け付けてくれた。Nを待っている間わたしは冷たい路上にペタンと座り込み、ぽこちゃんに手を差し出した。そして首筋を撫でた。ぽこちゃんは気持ち良さそうにわたしの手にスリスリしてきた。…う。や、やばい。かわいい。間もなくNが到着。

 帰宅ラッシュの駅構内の片隅で、小さく屈む親子と、がつがつメシをかっくらう小動物。通り過ぎて行くヒトビトからはどんな光景に見えるのだろう…とその場では思うことさえできず、座り込みぽこちゃんに我々は何ができるかを思い悩む。この子は、絶対人慣れして、「ぎ」のつく誰かさんなんかとは比べものにならないくらい優秀な「飼いネコ」になれる!と思うのだが…それ以上の発展的な案は浮かばず。しばらくここに通って、ご飯あげつつ、捕獲のタイミング見計らいつつ、というのが遠回りのようで一番の近道なのだろうな、という結論。が。捕獲はいいが、一体誰がこの子の親になるんだ?え?うち?うちは無理ですよ。無理でしょう、どう考えたって。え?ニンゲンやってできないことはない?は?どの口がそんな大層な夢物語を吐き出せるんだ?…以下永遠ループの独り言。

 ぽこちゃんはたらふくご飯食べたあと、ぴょーんぴょーんてな感じで通りの向こうに駆けて行った。車が通る道をわき目も振らずに一直線で走り抜けて行ったので、非常にハラハラした。


 Nと抱く大いなる野望。ひたすらネコの去勢避妊を施して、完全に数をコントロールしてしまい、ネコ自体の数を激減させてやつらを希少種にしてしまう。でもってうちの子ら高値で売ってやるー。…とかなんとか言いながら、帰路につく。


 今さらですが、Nよお誕生日おめでとう。この母親の元よくぞ16年間道を違わず生きてくれました。ありがとう。が、あれっぽっちのダッシュで筋肉痛というのは、あなたの年齢ではいささか解せないので、ひとまず運動しましょう。

2.28.2009

書いてないですから

 しばらく前にAustralia在住のTから電話。ここをたまに覗きに来てくれているのだけど、ブログのタイトルと更新頻度が呼応しておらぬ…というようなご指摘をうけた。はい。確かに。今月はここが未踏の地となるところだった。なんとか最終日の今日、ログインした。

 実はいろんなことが起こっていた。ぎうにうの去勢が完了。たまなしぎうにう完成。こいつ、病院に連れて行くのが本当に大変だった。前代未聞のヘタレ。病院でキャリーから出されたら、腰がくだけて自力で立てなくなるほど。ヘタレがゆえの攻撃性なんだろうなぁと妙に納得。ハハはなんだかかわいらしいキャラの子になってしまっている。「遊ぶ」という行動を覚えた。じゃらすと遊ぶのだが、おぼつかない様子がなんともかわいい。Wは、手術の有無の決断が先送りに。もう1回検査をしてその結果で判断するらしい。現在所属している選抜チームでの残り日数が僅かとなった。この土壇場で、とてつもないコンテストに出場することが決まった。昨年この大会のジュニア部門で世界一になったチームのコーチが、実はW所属選抜チームのコーチなのだ。昨年世界一のこのチームも、メンバーが多少入れ替わって出場するらしい。その子たちを生で観れる楽しみも!Wには絶対チームの足を引っ張ってもらいたくない。頼むぞ、W。

 やりたいと思っていること。犬猫の処分施設の見学。経験として。ナチスドイツの虐殺と大して変わらないことを、今なお、ニンゲンが行っているという「現実」をこの眼にしっかり焼き付けたいと思っている。命を粗末にしている現場を直視したい。わたし一人でかぶれるものなら、その『罪』の全てをかぶりたい。…なんて感傷的なことを口走ったら、Nに「現実的じゃない」という手厳しいつっこみをされた。

1.26.2009

とある死

 惨い状態だった。近くに散らばる血の痕からみると、出血の量はさほどでもなかったろう。頭蓋を躊躇なく砕かれた感じだった。左目が飛び出していた様子からそう想像できた。
 昨日出先からの帰り道に出会ったねこの亡骸。車にはねられたのだろう。車道のほぼ真ん中に横たわっていた。更に上からほかの車に乗られて、もっと惨い状態になってしまうのはどうしても避けたかったので、道の脇に移動してあげた。そして手持ちのハンカチを上からかぶせた。すぐに保健所に電話するも、業務時間内に連絡しろという非情な録音案内。最寄りの警察に電話し、「かわいそうだからなんとかしてくれ」と懇願する。ニンゲンの死体なら急いでくるだろうに、のらりくらりの対応にいささか腹立たしさを覚えた。くそ。命に差別はないと、誰もがオトナから言われて育っているはずなのに、いったいそんなことを誰が教えて誰が実践しているんだ、この国は。
 迷うことなく泣きながら、動かなくなっている子を撫でながら、口をついて出てきた言葉は「ごめんなさい」だった。Tonoが旅立った時と同じ言葉だった。あまりにも理不尽きわまりない「死」に直面すると、そこから救えなかった自らを責め、そしてその子に詫びることしかできないのだ。ごめんなさい。許してとは言わない。またねこに生まれてきたら、必ず我が家においで。いじわるな先住人(おもにCanto)はいるし、ご飯は固いものしかでてこないが、車にひかれるなんていう、怖くて痛い思いをしなくて済むはずだからね。
 憎むべきは、ひいたことを認識していながら、あの子を置き去りにしていったドライバー。死ねばいい。同じ目に遭って死ねばいい。すぐに死ねばいい。3秒後に死ねばいい。…とわたしが叫んでいたら、Nが「今すぐより、もっと生きたいと希望に満ちている時に死ねばよりいい。例えば、昇進が決まったとか結婚が決まったとかマイホームを買ったとか。自分の将来の希望に満ち溢れている時に死ねばいい」と助言してくれた。いやはや、なんてイヤなやつなんだ。どう育てばそういう悪意に満ちた発想ができるんだ。とは言えども、このNの考えに大いに賛成した。
 亡骸に向かって手を合わせる。涙を惜しみ無く流す。共にいた5人分の「思い」が、あなたに届いただろうか。わたしたち5人は、確実にあなたの「理不尽な死」を悲しんだ。そして、あなたの死を忘れないだろう。


【追記】
同じ場所にいた、Nと橋本学のこころの風景も合わせて読んでもらいたい

Nはこちら

橋本学はこちら

1.17.2009

1.16.2009

今朝

 しばらくぶりの友人からケータイに留守電が入っていた。メッセージを聞いたのは仕事が終わった夕方だった。Nの幼稚園時代の同級生の弟さんが亡くなったという知らせだった。亡くなったSくんはWと同い年だ。骨肉腫を患い、一年前から闘病していたそうだ。やり切れなくなった。お母さんの気持ちを想像すると、胸が張り裂けそうで、気が狂いそうになった。と同時に、不謹慎だが、Wは死んじゃだめだ!と激しくこころが叫んだ。そして、怖くなった。一刻も早くWの顔が見たくなり、涙を拭いながら、駆足で家路を急いだ。
 うちに着いたら、いつも通りWはわたしを陽気に迎えてくれた。思わず「W、死ぬな。絶対死ぬな」と本人に直接言ってしまった。Wは面食らったようだが、ぶっきらぼうに「夢叶えるまで死ねねーよ」と言った。実は数日前のWのMRI検査の日に、Wの病状が悪化してどうしようもなくなる…という悪夢をわたしは見てしまっていたのだ。
 死んでしまったら、当然、そこからいなくなってしまう。至極当たり前なことなのだが、ものすごく真に迫ってきて、限り無く現実味を帯びてしまい、抗い難い恐怖感に苛まれてしまう。いやだ。絶対Wは死なない。
 そして、ほぼ同時進行で、今生きてることの偉大さや素敵さをかみ締める。あなたがいること、わたしがいること、これは本当に奇跡なんだね。すごいことなんだね。この「感覚」を忘れないでいる。絶対に。


 たまたまおととい決まった今年の目標。本気で生きる。「生」って「死」のその瞬間のための『準備期間』だと去年確信した。将来に備えた保険とか貯金とかは苦手で、むしろ「できねー」と放棄してしまっているのだが。よりよく死ぬための楽しい生へのアイディアは果てしなくでてくる。迷わずどんどん進みたい。



 しんちゃん。あなたの黒目がちなキラキラ輝く瞳は、忘れられないよ。人見知りで恥ずかしがりやで照れ屋さんで、でもお姉ちゃんと一緒にだと思い切り走り回って、遊べたよね。苦しかったね。おつかれさま。またいつかどこかで会える日を楽しみにしているよ。