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3.21.2008

ご立腹

 疲れている。
 ただ普通に人並みに仕事に行って人並みに家事をこなして人並みにこどもたちと戯れて人並みに犬ネコをかわいがって人並みに大切な人々と交流して。普通に日常を送っているだけなのに、週末は一気に疲労の大波が襲ってくる。疲れると、普段はたやすくスルーできることも、いちいち丁寧に頭にきて腹が立って、むしろそれが愉快にさえ感じる。疲れゆえに生じている怒りを、もしかすると本当はわたしの根っこに存在していて疲れゆえに表面化しているかもしれない怒りを、それこそ疲れの勢いだけでぶちまけたい。
 「男」という性別のニンゲンを基本的に嫌悪している。疲れていると、露骨になる。職場でも職場に向かう道すがらでも、「男」と思われるニンゲンの態度行動言葉、もう全てに腹が立って、そいつの急所を切り落としてやりたくなる。稀に、腹が立たない「男」というニンゲンに接触すると、泣きたくなるくらいうれしくなる。ただ、そういう「男」は確率的には10人中3人いればいいほうで、大概は回し蹴りくらわせたくなるような輩ばかりだ。
 大体、「男」は何故あんなに偉そうなんだ?他者に投げ掛ける言葉で、その人がどういうふうに感じるかなんて、きっとこれっぽっちも想像できないのだろう。頭悪過ぎ。
 電車の中で、どうして「ドカッ」と座って新聞を広げられる?空いている車内ならまだしも、通勤時間帯の混雑した車内で。ここが、公の場で自分の部屋ではないことすらわからないのか。ほんとに頭悪過ぎ。
 更に電車の中。自分がばらまいた書類を、必死になって集め拾ってくれた若者に、どうして「ありがとう」の一言が言えない?おまえのために世の中が回っているわけではないのだよ。ばか。
 人類の歴史を俯瞰して眺めると、どれだけ「男」と呼ばれるニンゲンが、わたしたちの生きている世界を蹂躙し深く傷をつけているかがわかると思う。そもそも、「戦争」を喜んで引き起こしているのは「男」。そして、凶悪な犯罪は、概ね「男」が犯人。世を恐怖に陥れるこの2つの覆し難い事実を全「男」がきちんと認識しているならば、こんなにも「男」が偉そうにしていられるはずがない。…あぁ。羞恥心さえ欠落しているのか、「男」には。
 「男」はニンゲンとして「女」ほどパーフェクトではないのだ。「女」ほど強くもなく、しなやかでもなく、創造的でもなく、平和的でもない。とわたしは断言したい。染色体がいっこ足りないせいなのか、命を生み落とし育めないせいなのか。ともかく、確実に「男」は「女」より重大な欠陥を抱えているのだ。そして、有史以来、「男」は「女」のすごさを本能的に知っていた。しかしそのすごさを讃える度量を持っていないというだけでなく、弱いがゆえに恐怖心を抱き、挙句唯一持っている能力らしい能力、「腕力」でもって「女」を虐げてきたのだ。これが今までの「男」の本質で、未だに発展できずにその本質を無意識に引きずっている「男」がほとんどなのだ。
 じゃあどうすればいいのか。答えは簡単。まず、自らの無能を一刻も早く認めてもらいたい。子どもも生めない肉体なのだ。そのぐらい当然だ。そして、「女」を敬いなさい、と言いたい。あなた方も、「女」から生まれたのだ、感謝なさい、と言いたい。「女」を尊敬できる「男」が増えるだけで、必ずこの世界は変わることができるはずなのだ。隣にいる、配偶者なりパートナーなり親なり姉妹なり友人なりに、最敬礼するだけで良いのだ。
 これからの時代、世界を良き方向へ導けるのは、「女」の力でしかありえないと心底感じる。「男」たちが作り上げてきたこの世は、見るも無残に、行き詰まりの堆積物と化している。向こう100年で、リーダーシップを「女」が取ることを「男」が排除しようとするならば、この星は間違いなく滅びるように思う。

 本心は仲良くしたいのだ。「男」と呼ばれるニンゲンとも。でも、それは、向こうの態度次第…というのがわたしの思うところ。態度如何では、やはり急所を切り落とすしかないと考えているので、とりあえず、わたしの眼前では謙虚なニンゲンでいられた方が身のためかと。知人の「男」の皆様。

 少し疲れがとれた。

3.16.2008

教え育む

 この国の未来を真剣に考えるならば、こどもたちへの「教育」に視線が真っ先に注がれなければと常に考えている。では、「教育」とはなんだろう、その定義は人によって様々であることは想像に難くないが、目指す場所は同じであった方が好ましいに決まっている。
 そんなことを、このわたしのわずかばかりの脳みそで悶々を悩まずにいられない理由はあれこれとあるのだが、昨日ふと目にした、塾とか予備校とかいうものの看板にあった「一流校主義」というようなキャッチコピーが頭に張り付いて離れなくなったからだ。一流校として思い浮かぶ学校はいろいろあるのだが、じゃあその一流校は一流のヒトビトを果たして排出しているのだろうか甚だ疑問である。先ごろ心底むかついて、読んでいた新聞を思わず床に叩きつけてしまった再生紙の偽装事件。あそこで頭を下げていた大手製紙会社のヒトビトだって、もれなく所謂「一流校」を出ているヒトビトであろう。この事件更にむかついた、というか呆れて笑いしかでてこなくなったその後の話として、偽装していた紙を捨てると言い出した…というものがあったが、こんな発想しか生み出せないヒトビトが「一流校」出身?一流校とは、頭悪いヒトビトを製造するところなのか?一流校を出て大手の企業に入ってそこそこ昇進してきっとそこそこお金を持つと、ヒトは「バカ」になってしまうのか?ならば、今わたしたち世代の親たちは、そのこどもらに暗に「バカになりなさい」と躍起になってお勉強を押し付けているのか?極論すぎるかもしれないが、そんな側面をはらんでいる可能性は多分にあるわけであるし、ましてやその可能性の有無さえ感じることもできないバカ親だっているのである。その親が一流校をでていたとしても、バカはバカでしかないのである。教育の目指す先は「幸せ」でしかないと信じている。そうすると、この国の大人と呼ばれるヒトビトは「幸せ」をはき違えているとしか思えないのである。
 わたしは、こどもが幼い頃から、「命には限りがある。いつか、わたしもあなたも、終わるのだ」ということを再三話してきた。だからこそ、刹那にいきるのではなく、よりよく楽しく生き抜いてもらいたいという願いを込めていた。どんなに苦しくても悲しい気持ちに囚われても、今自分の命があることがすごい、と感じられるヒトになってもらいたいと思っていた。そう思えることができれば、自分の命を存分に輝かせることができる場所は、決して目の前に見えている景色のなかだけではないということに気付いてくれるはずだと考えてきたからである。そして、傍らにいる他の命を慈しむこともできるはずだと確信していたからである。「幸せ」とは押し付けではありえない。自分が自らで感じ取れるか否か、のみである。「一流校」に向かって死に物狂いでお勉強させれば、こどもたちが「幸せ」を感じ取れるこころを育むことができるのか?とこの国の大人と呼ばれるヒトビトに尋ねてみたい。
 ゆとり教育の是非が云々されているが、わたしは「ゆとり」の方向性は決して誤りでなかったと思う。わが子たちは、「ゆとり」の最先端に置かれた。評価対象にならない“総合”という教科に何故かわたしがこころ躍らせた。この“総合”に英語教育をあてがってきた学校も多くあったようだが、わが子等の小学校は、こどもたちを近所にある江戸川に向かわせた。低学年の頃は、長靴持参で毎日毎日江戸川通いをしていたものだ。帰宅して生き生きとわたしに江戸川報告をしてくれるこどもたちをみることが、わたしは大好きだった。…結果、所謂学力の低下が懸念され「ゆとり」の見直し、ということに至るようだが、「教育」の場所で結論を急ぐことはやめてもらいたい。たかだか10年にも満たない取組みの結果を全てにしてもらいたくない。九九があやふやでも、台形の面積をもとめられなくても、「命がすごい」ということを肌で感じ取れるこどもたちの方が、絶対に人生を有意義に楽しく過ごせるに決まっているのだ。
 もし、完全に「ゆとり」を見直して、この国の教育システムが学力向上にひた走ることを目指すのならば、一切の感傷を排除して、お勉強に徹することのできる環境を作ってもらいたい。中途半端に、こころの教育などやってもらいたくない。そんなことは、各家庭で保護者がやればいいのだ。この国が将来的にどのようなニンゲンを作り出していきたいのか、義務教育という現場では、そんな差し迫った命題に向かい合っているという自覚をもってもらいたい。もちろん、わたしたち大人と呼ばれるヒトビトも言わずもがなである。
 現在の義務教育というシステムと闘い尽して、ようやくその勤めから解放されたNであるが、思いがけず彼女の口から感謝の言葉を聞けた。そこにいたヒトビト、友達や先生たちへの感謝である。憎むべきは制度であって、その場に存在するヒトビトではないということを、彼女は理解してくれたようでわたしは非常に嬉しかった。そして、今後も、もうしばらくの間は彼女にぴったりと添うて、「幸せを感じ取るこころ」を共に育んでいきたいと新たに決意した。

3.13.2008

Wのことも少し

 二人目で男の子。かわいくて仕方がなかった。おまけに小さい頃からそこそこ体が弱くて、わたしとしては常に体の状態が気に懸り、手も口もいっぱい出して育ててしまった。…原因はそこだけに求めることはできないだろうが、そうこうして、なんだかフワフワしていてユラユラしていて、良い意味でも悪い意味でも、何事にもテキトーなWが現存している。
 が、幼い頃からとても穏やかで優しい子だった。
 まだ1歳に満たない頃。当時3歳だったNをこっぴどく、かなり理不尽に叱り飛ばしていた時。Wはハイハイで駆け寄って来て、わたしとNの間に割って入り、わたしを睨み付け言葉にならない唸り声をわたしに投げ付けた。明らかにわたしを責めていた。そして泣いているNに向き、Wは心配そうにNの顔を覗き込んだのだった。
 幼稚園を卒園の直後、だいすきだった担任の先生が園を離れてしまう離任式では、人目もはばからず、Wは「さびしい」と言って大号泣した。
 小学校3年の授業参観。教室に到着したわたしの姿を見つけるや否や、「おかーさん!」と嬉しそうに走り寄ってきてわたしに抱き付いた。近くにいた同級生に「W、こどもみたい」と半ばからかわれるが、Wは「だって、こどもだもん!」と毅然と言い返した。
 最近、ダンスのオーディションを受けた。その練習のため夜スタジオに行った帰り道「こういうチャンスをくれて、おかーさん、ありがとう」と照れながらわたしに伝えてくれた。
 こうして振り返ると、彼は男の子でありながら、実に豊かに、率直に、自分の感情を表現してきてくれた。母親としては、これほど嬉しいことはないと感じる。
 Nは常に、わたしが明らかに褒めることができる「結果」を、たくさんわたしの目の前に提示してきてくれた子だったと思う。比較してはいけないのだけど、Wはそういうタイプではなかった。宿題も明日の準備もつい最近まで、わたしに確認されなければできなかったし、朝脱いだパジャマは未だに自分で洗濯カゴに入れないし、お菓子を食べたらゴミは放置、マンガを読んだら片付けない、字は汚い…わたしが小言を言うことができる「結果」を常にもたらしてくれていた。
 しかし、幼い頃からの彼の言動をこうやって詳細に思い出すと、日常のだらしなさなんて大したことないよね、と思ってしまうのだ。Nにしてみれば大変おもしろくない話だろう。人間は、できないこともあって、できることもある。この姉弟はこれらが全く正反対なのだから、わたしとすればなかなかおもしろい。
 間もなく、Wは小学校を卒業する。面倒な中学生に突入だ。彼はその優しさでもって、いつもわたしに寄り添っていてくれた。Wがこれからもその「良さ」を見失うことがないよう、支援していきたい。パジャマは引き続き、わたしが洗濯カゴに入れ続ける覚悟でいる。

 オーディション、受かってるといいね。

3.02.2008

試しに動画をあげてみる

もひとりの我が子、Nほど激しくは生きていない、Wのいまんとこの実力。