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6.30.2008

そして、ネコ再び①

 恐らくカントと兄弟だと思われる母ネコがいる。彼女は去年の夏、うちのマンションで子育てをしていた。その簡単な顛末は、過去の記事に。
 秋口になった頃、わたしたちがカントをうちに迎える決意をした頃から、途端に、彼女をみかけることがなくなっていた。確か、ノータを迎える日、マンション前でNSさんからノータを受け取る時に、生け垣に彼女が潜んでいるのを目撃して以来、随分と長い間、彼女と道端で遭遇していなかったように思う。
 それが、ここ最近、再びマンション敷地内で彼女をみかけるようになっている。それ以前に、外でネコが呼び合っているのが、よく聞こえてくるようになっていた。声に誘われて外を覗いて、Nと二人で「あれ、母じゃん」と確かめ合う。夏に子育てをしていた母ネコであることに間違いない。
 …いやな予感。もしや、また子育てしにここに戻ってきたのでは。ある雨の日、Nが、うちの前に建っているマンションの敷地内で、大きな声で鳴き叫びながらその場をグルグル歩き回る『母』を目撃してしまう。…誰かを探しているにちがいない。早速NSさんに連絡し、餌やりをしている人に『母』のようなネコを見ていないか尋ねてもらうお願いをするために、うちのそばでNも一緒に3人で立ち話をしていたその時。いた!子ネコだ!推定2か月くらい。Nがそおっと近付いたのだけど、大慌てで逃げて行ってしまった。
 3人で思わずため息をついてしまった。…また、増えてきた。子ネコの姿を見て、無条件に「かわいい!」と思えたのは束の間だった。あれは『母』の子なのか?兄弟はいないか?どうすればいいんだ?一気にいろんな思いが湧いてきて、頭の中がしばしカオスになった。
 餌やりをしている人からの情報では、『母』のようなネコはきていない、ということだった。我々の目論みとしては、もしそこにいつもきているのなら、その方にも協力願って、『母』を捕獲し避妊手術を受けさせ、『子』たちも捕獲し避妊去勢後里親探しをする…というもの。その餌場にきていないとなると、どこに通っているのだろう。
 その後何日も、『母』にも子ネコにも会えず。夜になるとマンション界隈をNと二人でふらつき、探してはみるものの、会いたいと思いを募らせている時には会えないもの。Nもわたしも、『母』とその子への容易には片付けられない感情を胸に抱きながら、半ば途方に暮れ、それでも常にあの子たちの面影を道端に探し求めてきた。
 
 そして。今日。
 とうとうマンション敷地内で、『母』とその子二人と対面することができた。

6.20.2008

バカヤロー

 これ。これこれこれ。

 こういう数字が出ているニュースを目にする度に「ケッ」と思う。家事ってあれでしょ。基本自分の身の回りのことでしょ。ご飯作ったり洗濯したり掃除したり片付けしたり。結婚したら、何かい、男は自動的に免除されるんかい。自分のことすらできない、そんなばか男が相変わらずのさばっているんだな。そんなばか男は、生きる価値なしに一票。つい最近、新聞紙上でわたしがだいすきな西原理恵子さんが、「夫に言われて一番ムカついた言葉は『手伝ってあげようか』だった」と言い、「それはそもそもテメーがやることなんじゃねーのか!」というふうに喝破していたことを即座に思い出した。西原さんと言えば、幼子を慌ただしく保育園に送り届け自らも髪振り乱して職場に向かわなければならない、朝の修羅場の様な一コマを切り出して、「こんな苦労が男にできるか、バカヤロー」とおっしゃっていた。常に胸に刻んでいたい名文句である。
 実はわたしと夫は、もう既に、一夫婦としては破綻しているのだが、こどもたちが幼かった頃は夫はいつも、フツーに家のことをしていた。「フツーに」という点が重要。彼にとっては「手伝ってあげる」なんて概念はなかったのだ。当たり前のこととして捉えていたようだ。わたしは大いに感謝していたものだ。そのお陰で、こどもたちと大切なことを、ゆっくりじっくり教え合うことができたのだと感じる。そんな父親を見ているせいか、NもWも、頻繁に家事に参加してくる。大抵は、わたしから依頼をして、それをこなしてもらうのだが、嫌な顔をされたためしはない。別にわたしがそれほど恐れられているわけでもないだろうし。
 家族って、あれ、なに、みんな子細な役割分担があって、そのとおりその役演じないとならないわけ?母親であるわたしが仕事から帰ったら、娘が作った夕飯が待ってたらだめなわけ?皆が夕飯終わる頃帰宅したら、息子が食器洗っていたら間違ってるわけ?家事ができない「男」って、「家族」の意味を知らないの?そんなことも教わらずに、というか、自分の頭で考えることもせず、よく結婚してこどもなんか作れたもんだ。呆れるどころか、感心する。

6.19.2008

あぁ。幕末。

 元気になったと思ったら、この場にかきつけることをしなくなってしまっている。「文章を書く」ということや、「自分の想いを整理整頓する」というような目的でもって、この場を利用するつもりでいたのに。いかん。

 ついでに言うならば、読書量も書くことに比例して、グイッと減っている。やっとの思いで昨日読み干したのは、「高杉晋作」。すごく乱暴に言ってしまうと、あの時代、わたしが好きな「新選組」の対角にいた人物。敵と言っても過言ではなかろう。新選組がらみの小説や史実本などをいくつか読み、俄然長州にも興味が湧き、タイミング良く古本屋でみつけ即購入した本だ。しかしその後、乙一という天才作家の作品たちに魅了されていたので、高杉晋作くんは本棚でしばらく寝ていなければならない羽目になっていた。家に読んでいない乙一の本がなくなってしまい、いよいよ日の目をみたわけだ。
 読後感を書き始めると、いささかキリがなくなってしまうので、端折る。が、一点だけ。かの有名な「おもしろきこともなき世をおもしろく」という彼の句は、彼が病床にあった時に作ったものだと知り、泣いてしまった。いつものことだが、電車内で。恐らく、泣く前に「あーーー」という感嘆音も漏らしていたはずだ。微かではあるが。某東京メトロに乗降されている皆様、挙動不審でごめんなさい。
 こんなにも前向きな言葉を、もう二度と起き上がれないかもしれない体で生み出し綴ることができた彼を、本気で尊敬する。ちょっぴり気分が停滞したぐらいで、この世を「クソ扱い」してしまう傾向にある自分に「ばーかばーかばーかばーか」と、とりあえず手加減抜きで突っ込んでおいた。
 今、現代に、彼高杉晋作がいたならば、同じ句を読めたのだろうか。いや、きっと、こういう、気持ちがブレないしっかりとしたヒトは、どんな時代にいようとこう思えるのだろうな。強い。これからは、落ち込んでしまったら、病に伏しながらこの句を詠んだ高杉を思い浮かべることにする。だってバレーボールは常にテレビ放映されているわけではないから…

6.08.2008

声、かれた

 決まった。日本男子バレーの北京五輪出場。Nと大騒ぎしながらしっかりとその瞬間を見届けさせてもらった。近隣へもたらす迷惑なんてことは一切考えず、というか頭にキープしておく余地がなく、絶叫し尽くした。ご近所の皆様本当にすみませんでした。

 今日はサクッと一言。「感謝」できるヒトビトって美しいなぁと感じた。選手が皆、誰かへの「感謝」を述べていた。本物のヒトビトは、他へ敬意を払えるのだ。これは、ニンゲンが進化の中で勝ち得た、数少ない、でも意義深い“とりえ”だと思う。「感謝」できるヒトビトは、本当に強いヒトビトでもある。本当に美しく、そして本当に強い強いヒトビトに、この数日でわたしはいろんな触発を受けた。ありがとう。不純な動機で視聴し始めてごめんなさい。

6.07.2008

バレーボールで鬱払拭

 勝った勝った!日本男子バレー!

 ここ数日夜な夜な、試合観戦に熱く熱くなっていた。視聴のきっかけは、実にくだらない。全日本がイタリア戦の時、Nが散々迷った挙げ句「やっぱりイタリアのイケメンみーちゃお!」とテレビをつけてしまったのが、ことの始まりだった。
 わたしは、テレビが大嫌いで、一切テレビを見ない。うるさいし嘘つくし、そこに時間を費す価値をこれっぽっちも見出だせないでいる。ニュースも見ない。天気予報も見ない。そんなものヤフーと新聞だけで充分まかなえる。ドラマも見ない。嘘っぱちの世界だから。わたしの方がよっぽどドラマチックに生きてるし。本を読んだ方がフィクションは真に迫ってくるし。ドキュメンタリーも、どこで嘘や嘘に近い脚色が入ってるかわからないので、めんどくさいから見ない。…そんなわたしが、CMの音量のでかさも苦にせず、連日連夜2時間もテレビの前に端座しているなんて、そうそうありえることではないのだ。
 「イタリアのイケメンみーちゃお」とまったくもって不純な動機でテレビをつけたのだったが、なんのことはない、あっという間に全日本選手にイケメンを発見してしまい、親子揃ってメロメロになってしまった。いやはや、情けない。いやいや、情けないのは我々親子であって、全日本男子は、断じて情けなくない!
 中学3年間はバレーボールをしていた。わたしが吹奏楽部に入るだろうと目論んでいた両親は、珍しく猛反対した。小学生の時にテレビで見たワールドカップ女子の試合にひどく感動して、以来バレーボールに夢中になった。なので、あの「自虐的スポーツ」(Nがそう言った)の、きつさやもどかしさや嬉しさは、若干ではあるがわたしの体が覚えている。とは言えども、全日本の力の位置が世界の中で下がっていき、わたし自身も全く無関係な所で生きてきて、大幅なルール改正が具体的にどう施されたのかも知らないくらい、ずっと興味の対象になることはなかった。
 昨日のオーストラリア戦。北京に向けての大一番のこの一戦。わたしは、Wのレッスンの付き添いのため、うちでテレビを見れないという事態に陥った。ところが!なんと!驚くなかれ!わたしのケータイは、無駄にワンセグだったのだよ。買った当初こどもらには、「母に一番必要のない機能だ」と大いにバカにされていたぐらい。が!無駄じゃあなかった!参ったか!レッスン待ちつつバレーボール観戦できてしまう現代テクノロジーに感謝しまくった。文明よ、ありがとう。
 最初はイタリアのイケメン見たさだったのが、全日本のイケメンに目移り。そのうち、イケメンじゃない選手までイケメンに映るようになってしまい、「〇〇さんは精神的イケメンだよね」などとNとほざきあう始末。試合に勝ってもらいたいと強く思う。北京に行ってもらいたいと祈るような気持ちになる。得点をするとテレビの前で一緒にガッツポーズ。ミスが出たら「だいじょうぶだいじょうぶ!」とテレビの画面に声をかける。このわたしが、なんの邪推もなくここまでテレビ視聴を満喫できるのは、画面の向こうにいる人々があまりにも一生懸命で、そこに嘘があるはずがないことを、こちらとしても真摯に受け止めずにいられないからだ。むしろ、日頃テレビを「嘘をまくし立てる箱」としてしか認識できなかったのが、バレーの試合を見ている中では、「本当のこと」だけが限り無くリアルに映っており、それが狂おしいくらい胸に迫ってくるほどであった。
 だからといって、わたしの「テレビ」への評価が好転したわけではない。相も変わらず嘘をがなりたてているわけであって、そんなものへ時間を割くほどわたしは落ちぶれていないので、今後もテレビのない生活は続くのだ。ただし、スポーツ中継だけは、その範疇には入ってこないのだなということに気付くことができた。
 北京まで、あと一勝!勝てれば実に16年振りのオリンピックらしい。勝ってもらいたい。行ってもらいたい。そうしたら、わたしはもうしばらく、テレビの前に釘付けになるのだろう。これまた実に、サッカーワールドカップのフランス大会以来となるのだ。(ちなみにその時には、純粋にイタリアのイケメンを楽しんでいた)



 本当は、選手個人名をあげてあーだこーだ書き連ねたかったのだが、そうすると、デレデレでヘロヘロでヨレヨレの、まるでダメなおばさんっぷりを発揮しかねなかったので、やめた。