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4.08.2008

もう一人のお母さん①

 最近吠え過ぎたので、吠えずに済ませられる話題を。Nが読んで自身のサイトの日記で、「うちの母はきつい」と嘆いていたので、少しばかりヘコんでいるのかも。
 19歳の年の春、2か月ほどホームステイという形で米国に滞在した。カリフォルニアのフレズノという中都市にいた。高校を辞めて、大検を受けたのだが、手応えがあまりにも悪過ぎたので、「翌年再挑戦の前にちょっと遊びに行ってやる」というノリで渡米準備をせっせとしていた記憶がある。その後、大検は実は合格していたという、うれしいけど泣きたくなるようなオチがついてしまったのだが。ともかく、こころは既に米国 に吹っ飛んでいたので、大学受験準備はその後で…とさっさと折りをつけた。
 それはそれは、楽しい2か月だった。思い出すと、今でも19歳のわたしに戻ることができる。英語学校のクラスの多国籍さ。インドネシア、香港、スペイン、フランス、ドイツ、韓国、コロンビア、そして日本…これほどにも母国が様々な仲間たちと、拙い英語で和気あいあいとコミュニケーションを取り、楽しい時間を共に過ごした。わたしが日本に戻る時には、全員と一人一人ハグをして号泣した。未だに全員名前を覚えている。
 そしてホームステイ先にも恵まれた。ママは自宅でベビーシッターをして働いていた。一人息子は5年生で、非常にやんちゃで毎日ママが叱り飛ばしていた。パパは口髭をたくわえたとても穏やかな人だった。毎日一緒に話して、大いに笑って、落ち込んだ時には励ましてもらった。帰る日の前日は、パッキングしているわたしの部屋にみんなが入れ替わり立ち替わりやってきて、「あー。あさみは帰っちゃうんだ」と呟いていた。出発当日、洗面所でママと二人並んでおしゃべりをしながら化粧をしていた時。ふいに二人の間に沈黙が入り込んできて、たまらず二人で抱き合って涙した。…もちろん、化粧はやり直し。空港で、最後のハグをした時にママがわたしに言った言葉は、絶対に忘れない。「ここに来たい時は、いつでもきていいよ」と。
 この9年ほど、ママとわたし、お互いに連絡をしていなかったのだが、一昨年秋に思い切って久々の手紙をしたためてみた。そこには「この手紙を受け取ったら、すぐに記載のアドレスにE-mailをください」という内容だけを盛り込んだ。しばらくの間、わくわくしながらメールボックスを開いていたのだが、その期待はいつも挫かれていた。引越すかもしれない…という話をかなり以前に聞いていたから、そのせいで手紙は届かなかったかも、という諦めのような感情が出てくるようになっていった。そうして、手紙を出したことさえ忘れ去りかけていたある日。とうとうママからメールがきた。メールがきている事実をみて涙。メールに書いてあるこの何年かでママに起こった事実を読み取り、再び涙。そしてその時に、「ママに会いに行こう」と強く固く決意した。去年の5月くらいのことだった。