勝った勝った!日本男子バレー!
ここ数日夜な夜な、試合観戦に熱く熱くなっていた。視聴のきっかけは、実にくだらない。全日本がイタリア戦の時、Nが散々迷った挙げ句「やっぱりイタリアのイケメンみーちゃお!」とテレビをつけてしまったのが、ことの始まりだった。
わたしは、テレビが大嫌いで、一切テレビを見ない。うるさいし嘘つくし、そこに時間を費す価値をこれっぽっちも見出だせないでいる。ニュースも見ない。天気予報も見ない。そんなものヤフーと新聞だけで充分まかなえる。ドラマも見ない。嘘っぱちの世界だから。わたしの方がよっぽどドラマチックに生きてるし。本を読んだ方がフィクションは真に迫ってくるし。ドキュメンタリーも、どこで嘘や嘘に近い脚色が入ってるかわからないので、めんどくさいから見ない。…そんなわたしが、CMの音量のでかさも苦にせず、連日連夜2時間もテレビの前に端座しているなんて、そうそうありえることではないのだ。
「イタリアのイケメンみーちゃお」とまったくもって不純な動機でテレビをつけたのだったが、なんのことはない、あっという間に全日本選手にイケメンを発見してしまい、親子揃ってメロメロになってしまった。いやはや、情けない。いやいや、情けないのは我々親子であって、全日本男子は、断じて情けなくない!
中学3年間はバレーボールをしていた。わたしが吹奏楽部に入るだろうと目論んでいた両親は、珍しく猛反対した。小学生の時にテレビで見たワールドカップ女子の試合にひどく感動して、以来バレーボールに夢中になった。なので、あの「自虐的スポーツ」(Nがそう言った)の、きつさやもどかしさや嬉しさは、若干ではあるがわたしの体が覚えている。とは言えども、全日本の力の位置が世界の中で下がっていき、わたし自身も全く無関係な所で生きてきて、大幅なルール改正が具体的にどう施されたのかも知らないくらい、ずっと興味の対象になることはなかった。
昨日のオーストラリア戦。北京に向けての大一番のこの一戦。わたしは、Wのレッスンの付き添いのため、うちでテレビを見れないという事態に陥った。ところが!なんと!驚くなかれ!わたしのケータイは、無駄にワンセグだったのだよ。買った当初こどもらには、「母に一番必要のない機能だ」と大いにバカにされていたぐらい。が!無駄じゃあなかった!参ったか!レッスン待ちつつバレーボール観戦できてしまう現代テクノロジーに感謝しまくった。文明よ、ありがとう。
最初はイタリアのイケメン見たさだったのが、全日本のイケメンに目移り。そのうち、イケメンじゃない選手までイケメンに映るようになってしまい、「〇〇さんは精神的イケメンだよね」などとNとほざきあう始末。試合に勝ってもらいたいと強く思う。北京に行ってもらいたいと祈るような気持ちになる。得点をするとテレビの前で一緒にガッツポーズ。ミスが出たら「だいじょうぶだいじょうぶ!」とテレビの画面に声をかける。このわたしが、なんの邪推もなくここまでテレビ視聴を満喫できるのは、画面の向こうにいる人々があまりにも一生懸命で、そこに嘘があるはずがないことを、こちらとしても真摯に受け止めずにいられないからだ。むしろ、日頃テレビを「嘘をまくし立てる箱」としてしか認識できなかったのが、バレーの試合を見ている中では、「本当のこと」だけが限り無くリアルに映っており、それが狂おしいくらい胸に迫ってくるほどであった。
だからといって、わたしの「テレビ」への評価が好転したわけではない。相も変わらず嘘をがなりたてているわけであって、そんなものへ時間を割くほどわたしは落ちぶれていないので、今後もテレビのない生活は続くのだ。ただし、スポーツ中継だけは、その範疇には入ってこないのだなということに気付くことができた。
北京まで、あと一勝!勝てれば実に16年振りのオリンピックらしい。勝ってもらいたい。行ってもらいたい。そうしたら、わたしはもうしばらく、テレビの前に釘付けになるのだろう。これまた実に、サッカーワールドカップのフランス大会以来となるのだ。(ちなみにその時には、純粋にイタリアのイケメンを楽しんでいた)
本当は、選手個人名をあげてあーだこーだ書き連ねたかったのだが、そうすると、デレデレでヘロヘロでヨレヨレの、まるでダメなおばさんっぷりを発揮しかねなかったので、やめた。
6.07.2008
5.28.2008
こころの景色
ここしばらく、憂鬱な気分が全く晴れなく、ということは前述の通り。ただし、食欲も睡眠欲も正常の範囲なので、あまり自分でそこを深く突っ込むことはやめにして、「単なる五月病」としてエイヤっとねじ伏せておくことにした。
でも、一つ気付いたことがある。こういう状態の時は、一日の中で感情の振幅が極めて小さいのだ。小さいこともさることながら、一つの固定の感情に支配されていることが多い。
ちなみに今日は「哀」の感情。何を見ても、涙が溢れそうになる。我ながらびっくりしたのは、朝通勤電車を待つ駅のホームで、隣り駅にスーッと伸びて行く線路を見て涙ぐんでしまったこと。そこに「哀」が見えてしまった、と言ったところで誰にも理解してもらえない。多分。
「怒」に支配されている時のわたしには、近寄らぬ方が良いかと。全部に腹が立っているから、そんな時には総力を上げて全身全霊で、オールタイム戦闘態勢でいる。ので、すぐケンカができる。ので、サワルナキケン。
一番多いのは「諦」の情景。どんなに天気がよくても、わたしの目の前にはグレイの世の中しか広がっていない。「諦」から派生して「哀」と競合したり共鳴したりすることも、ままある。
とにもかくにも、マイナス感情、それも大概一個だけが、わたしの頭のてっぺんから爪先までを貫いてしまうのだ。連日そんななので、しんどい…そう考えると、ニンゲンって本当に「感情」の動物なのだなぁと感心せずにはいられない。あちらこちらに自由にこころを動かすことで、自らの精神のバランスを保っているのかもしれない。そうすると、今のわたしは、こころのどこかの回路が何かの理由で遮断されて、潤滑に巡っていないからバランスが崩れてしまっているのだろうか…などと、冷静に結論を出したりして、我ながら「あほか」と思う。
昨年の今日は、あまりにもいろんなことがありすぎて、忘れ難い日になっている。「哀」も「怒」もあった。そして「喜」も。
それぞれが、わたしが抱えきるにはとても大き過ぎて、パンクしそうな自分がいたっけ。
でも、一つ気付いたことがある。こういう状態の時は、一日の中で感情の振幅が極めて小さいのだ。小さいこともさることながら、一つの固定の感情に支配されていることが多い。
ちなみに今日は「哀」の感情。何を見ても、涙が溢れそうになる。我ながらびっくりしたのは、朝通勤電車を待つ駅のホームで、隣り駅にスーッと伸びて行く線路を見て涙ぐんでしまったこと。そこに「哀」が見えてしまった、と言ったところで誰にも理解してもらえない。多分。
「怒」に支配されている時のわたしには、近寄らぬ方が良いかと。全部に腹が立っているから、そんな時には総力を上げて全身全霊で、オールタイム戦闘態勢でいる。ので、すぐケンカができる。ので、サワルナキケン。
一番多いのは「諦」の情景。どんなに天気がよくても、わたしの目の前にはグレイの世の中しか広がっていない。「諦」から派生して「哀」と競合したり共鳴したりすることも、ままある。
とにもかくにも、マイナス感情、それも大概一個だけが、わたしの頭のてっぺんから爪先までを貫いてしまうのだ。連日そんななので、しんどい…そう考えると、ニンゲンって本当に「感情」の動物なのだなぁと感心せずにはいられない。あちらこちらに自由にこころを動かすことで、自らの精神のバランスを保っているのかもしれない。そうすると、今のわたしは、こころのどこかの回路が何かの理由で遮断されて、潤滑に巡っていないからバランスが崩れてしまっているのだろうか…などと、冷静に結論を出したりして、我ながら「あほか」と思う。
昨年の今日は、あまりにもいろんなことがありすぎて、忘れ難い日になっている。「哀」も「怒」もあった。そして「喜」も。
それぞれが、わたしが抱えきるにはとても大き過ぎて、パンクしそうな自分がいたっけ。
5.26.2008
音楽漬
久しぶりにパソに向かってキーボードを使って書いてみる。いつもは、ちょっとした空き時間に、ケータイに書き溜めている。そして、後からつなぎ合わせたり組み合わせたりする。
昨日は大変濃厚な一日を過ごした。昼過ぎから、サントリーホールで催された日本フィルのベートーベンを聴きに。その後場所を変え、新宿ピットインでイケメンテナーサックス橋爪亮督のリーダーバンドのライヴを聴きに。両者それぞれが物凄くて、圧倒された。
クラシックオーケストラを聴きに行くのは実に4年振りだった。普段、音楽を聴きに出入りしている場所は、JAZZの、それもとてもマニアックでアンダーグランドなライヴハウスばかりなので(事実地下に存在することが多い)、数年ぶりにホールで何百という聴衆の一人になっている、そのこと自体がなんだかウキウキする事柄だった。今年は年頭に「絶対オーケストラを聴きに行く」と目標を立てていたので、ひとまず、目標達成。達成に導いてくれたMちゃんに感謝。
わたしの後ろに座していた方(知らない人)がクラシック通のようで、休憩時間に披露してくれたクラシック豆知識には思わず「へえーーーー!そうなんですかーーー!」と大きくリアクションしたくなってしまった。が、見知らぬ人。グッとこらえた。「のだめカンタービレ」という漫画がおおはやりして、我が家にも、半分くらい文庫が揃っているのだけど、何故かわたしは読んでいない。あの人にもこの人にも「おもしろいよ」と言われるのだが、読んでいない。「漫画は『銀魂』しか読まない」とこころに決めているわけではないのだが、読んでいない(だって、両さんも読んでるし)。なので、いい機会だから、是非読んでみようと思った。
今更ながら、ベートーベンはすごいコンポーザーだなと感じた。こんな風に簡単に言葉にしてしまうのは、非常におこがましい気がするのだが。その楽曲たちには、「悲嘆」や「苦悩」の瞬間が大いにちりばめられているのだけど、最後には「希望」に達する。わけのわからない、不定愁訴的な、「悲嘆」に暮れているわたしの心身がかなり揺さぶられた。そして改めて、この偉人は、作曲する際には、脳内でフルオーケストラの音が鳴り響いていたのだろうな、と思った。でないと、あんなシンフォニーは作れない。以前ピアノを習い、ベートーベンのソナタを練習していた時にも同じことを感じた。「あ、このフレーズはきっとこの楽器が鳴っているのね」とオーケストラの音色を想像しながら練習をしたものだった。ピアノソナタで、へたくそなわたしが練習しながらイメージできるのだから、楽曲がいかに豊かかがわかる。ああ。やはり、半期に一度くらいは、薄暗い地下のライヴハウスではなくて、開放的なホールで音の塊に包まれないと…と思いつつ、その足で、薄暗い地下のライヴハウスへ。
これまた、約1年半振りの橋爪バンド。バンド全体のサウンドの「鳴り」の変化にとても驚いた。5人のアンサンブルによって生み出されてくる音の塊が、昼間聴いたオーケストラと遜色ないくらいに、色鮮やかで、わたしに迫ってきてかつ、心地よかった。5,6年程前に、この橋爪バンドで演奏するドラムの橋本学の音に撃墜され、それ以降彼の追っかけと化しているのだが、橋本学自身の「音」もえらく変化したなと感じた。より、しなやかに。そして、より自由に。橋本学が、橋爪亮督グループという大地を縦横無尽に楽しげに駆け回っているように映った。そして、不思議なことに、橋本学自身のリーダーバンドでの演奏より、こちらでの演奏の方が「主役感」を大いに発しているのだ。なぜなんだ。不思議。
大満足で帰宅して、今日一日の体験が明日からの糧になればよいなという淡い期待を持って就寝したのだが、朝起きた瞬間からヘコんでいた。
なんだかな。自分がよくわからない。乙一読もう。
昨日は大変濃厚な一日を過ごした。昼過ぎから、サントリーホールで催された日本フィルのベートーベンを聴きに。その後場所を変え、新宿ピットインでイケメンテナーサックス橋爪亮督のリーダーバンドのライヴを聴きに。両者それぞれが物凄くて、圧倒された。
クラシックオーケストラを聴きに行くのは実に4年振りだった。普段、音楽を聴きに出入りしている場所は、JAZZの、それもとてもマニアックでアンダーグランドなライヴハウスばかりなので(事実地下に存在することが多い)、数年ぶりにホールで何百という聴衆の一人になっている、そのこと自体がなんだかウキウキする事柄だった。今年は年頭に「絶対オーケストラを聴きに行く」と目標を立てていたので、ひとまず、目標達成。達成に導いてくれたMちゃんに感謝。
わたしの後ろに座していた方(知らない人)がクラシック通のようで、休憩時間に披露してくれたクラシック豆知識には思わず「へえーーーー!そうなんですかーーー!」と大きくリアクションしたくなってしまった。が、見知らぬ人。グッとこらえた。「のだめカンタービレ」という漫画がおおはやりして、我が家にも、半分くらい文庫が揃っているのだけど、何故かわたしは読んでいない。あの人にもこの人にも「おもしろいよ」と言われるのだが、読んでいない。「漫画は『銀魂』しか読まない」とこころに決めているわけではないのだが、読んでいない(だって、両さんも読んでるし)。なので、いい機会だから、是非読んでみようと思った。
今更ながら、ベートーベンはすごいコンポーザーだなと感じた。こんな風に簡単に言葉にしてしまうのは、非常におこがましい気がするのだが。その楽曲たちには、「悲嘆」や「苦悩」の瞬間が大いにちりばめられているのだけど、最後には「希望」に達する。わけのわからない、不定愁訴的な、「悲嘆」に暮れているわたしの心身がかなり揺さぶられた。そして改めて、この偉人は、作曲する際には、脳内でフルオーケストラの音が鳴り響いていたのだろうな、と思った。でないと、あんなシンフォニーは作れない。以前ピアノを習い、ベートーベンのソナタを練習していた時にも同じことを感じた。「あ、このフレーズはきっとこの楽器が鳴っているのね」とオーケストラの音色を想像しながら練習をしたものだった。ピアノソナタで、へたくそなわたしが練習しながらイメージできるのだから、楽曲がいかに豊かかがわかる。ああ。やはり、半期に一度くらいは、薄暗い地下のライヴハウスではなくて、開放的なホールで音の塊に包まれないと…と思いつつ、その足で、薄暗い地下のライヴハウスへ。
これまた、約1年半振りの橋爪バンド。バンド全体のサウンドの「鳴り」の変化にとても驚いた。5人のアンサンブルによって生み出されてくる音の塊が、昼間聴いたオーケストラと遜色ないくらいに、色鮮やかで、わたしに迫ってきてかつ、心地よかった。5,6年程前に、この橋爪バンドで演奏するドラムの橋本学の音に撃墜され、それ以降彼の追っかけと化しているのだが、橋本学自身の「音」もえらく変化したなと感じた。より、しなやかに。そして、より自由に。橋本学が、橋爪亮督グループという大地を縦横無尽に楽しげに駆け回っているように映った。そして、不思議なことに、橋本学自身のリーダーバンドでの演奏より、こちらでの演奏の方が「主役感」を大いに発しているのだ。なぜなんだ。不思議。
大満足で帰宅して、今日一日の体験が明日からの糧になればよいなという淡い期待を持って就寝したのだが、朝起きた瞬間からヘコんでいた。
なんだかな。自分がよくわからない。乙一読もう。
5.20.2008
鬱・鬱・鬱
かなり病んでる感じ。周期的にやってくる「気分」ではあるのだけど、今回はかなり久方振りなので、こういう感覚の適切な処理の仕方を忘れ去っている。だからか、面食らってうろたえている。どんな感じか脈絡考えず書き出してみる。
ニンゲンの「非」の部分しか目に付かない。自分を含む。そして、憎しみの感情が充満する。いつでもどこでも、誰にでも言い掛かりをつけて、殴りかかりたい気分。そしていっそのこと、殴りかかった相手に殴り殺されたい。そんな気分。
ニンゲンは、進化発展していく中で、様々な犠牲をこの星に強いてきた。そのことを考える時に、元気な時には、「その犠牲を軽減するために自分ができること」を考えることができるのだが、今は破壊的なことしか思い浮かばない。かつてNが口にした名言で「ニンゲンは地球の『毒』だ」というのがある。全くもってその通り、毒を駆除しましょう、自分含む、と考えてしまう。自分というニンゲン一人が存在することで、如何ほどこの星を消耗しているのかを想像すると、吐き気がしてくる。
日本という国は、わたしにとってとても生きていくのに苦しい場所だ。弱いものに容赦がないから。協調を重んじ、群れないと行動できない。自分の権利だけは声高に叫ぶことはできるが、他者の権利を受容する度量はない。所謂「フツー」でないと、コミュニティから排除される。あぁ、もううんざり、となる。そしてやはり、元気な時ならば、「〇年後には日本を出る」と具体的な案を思い浮かべそこに向かうことができるのだが、今はてんでダメ。自分の存在地や存在そのものを否定しまくって、自分で自分を追い込んでいる。「こころ」がなくなればいいのに、と思う。
生と死を分かつ決定的なものっていったいなんだろう、と考える。今現存する「わたし」という物質がなくなるのが死ではあるのだけど、では「わたし」という意識はどこにいってしまうのだろう。そんなことも、延々と考えてしまう。
引きこもりたい。でもお金のために仕事いかなきゃだ。そして、「こいつも死ねばいいのに」と胸のうちで思いながら、表面に笑顔を張り付けて一日を過ごさなきゃだ。そんな自分に反吐が出そう。
ずいぶん古い本だが、最近ようやく読み終えた本が一冊。
「戦争の記憶」イアン・ブルマ著
たくさんの人に読んでもらいたいと感じた。
あとは乙一をたくさん読んだ。こんな話読んでるから上がっていかないのかなとも思ったり思わなかったり。でも、おもしろいんだもの。やめられないんだもの。わたしに勧めてくれたNよ、ありがとう。でも、ちょっとだけ恨む。
ニンゲンの「非」の部分しか目に付かない。自分を含む。そして、憎しみの感情が充満する。いつでもどこでも、誰にでも言い掛かりをつけて、殴りかかりたい気分。そしていっそのこと、殴りかかった相手に殴り殺されたい。そんな気分。
ニンゲンは、進化発展していく中で、様々な犠牲をこの星に強いてきた。そのことを考える時に、元気な時には、「その犠牲を軽減するために自分ができること」を考えることができるのだが、今は破壊的なことしか思い浮かばない。かつてNが口にした名言で「ニンゲンは地球の『毒』だ」というのがある。全くもってその通り、毒を駆除しましょう、自分含む、と考えてしまう。自分というニンゲン一人が存在することで、如何ほどこの星を消耗しているのかを想像すると、吐き気がしてくる。
日本という国は、わたしにとってとても生きていくのに苦しい場所だ。弱いものに容赦がないから。協調を重んじ、群れないと行動できない。自分の権利だけは声高に叫ぶことはできるが、他者の権利を受容する度量はない。所謂「フツー」でないと、コミュニティから排除される。あぁ、もううんざり、となる。そしてやはり、元気な時ならば、「〇年後には日本を出る」と具体的な案を思い浮かべそこに向かうことができるのだが、今はてんでダメ。自分の存在地や存在そのものを否定しまくって、自分で自分を追い込んでいる。「こころ」がなくなればいいのに、と思う。
生と死を分かつ決定的なものっていったいなんだろう、と考える。今現存する「わたし」という物質がなくなるのが死ではあるのだけど、では「わたし」という意識はどこにいってしまうのだろう。そんなことも、延々と考えてしまう。
引きこもりたい。でもお金のために仕事いかなきゃだ。そして、「こいつも死ねばいいのに」と胸のうちで思いながら、表面に笑顔を張り付けて一日を過ごさなきゃだ。そんな自分に反吐が出そう。
ずいぶん古い本だが、最近ようやく読み終えた本が一冊。
「戦争の記憶」イアン・ブルマ著
たくさんの人に読んでもらいたいと感じた。
あとは乙一をたくさん読んだ。こんな話読んでるから上がっていかないのかなとも思ったり思わなかったり。でも、おもしろいんだもの。やめられないんだもの。わたしに勧めてくれたNよ、ありがとう。でも、ちょっとだけ恨む。
5.12.2008
息子とその母
この春中学一年に進級したW。しばらく前にアップした動画の、あのダンスを元手に、某スポーツクラブの選抜チームのオーディションに見事合格し、4月から、非常に厳しいレッスンがスタートしている。並行して、中学校では吹奏楽部に入り、入部した途端、指導者からギター譜をドカドカと渡され、毎日泣きのギター練習をしている。…そんなこんなで、本気の集団に、それも2つ同時に所属することになり、どっぷりと活動にハマりつつあるW。最近、弱音ばかり吐いているのである。
4月にあったダンスの初めてのレッスンの日。帰り道Wは非常に浮かない面持ちでいた。気に懸り、途中のマックでお茶しがてら話合いをした。本人の言葉では「吹奏楽に打込みたいから、ダンスは辞めてしまった方がいいと思う」という心境になったようだ。
が、その意気込みとは裏腹に、昨日とうとう吹奏楽の練習後、彼は泣きながらうちに帰ってきたのだった。「ただいま!」と元気を振り絞って言ったものの、わたしの顔を見るなり、泣き崩れてしまった。「もう頭がパンパンで破裂しちゃった」と泣きながらこぼしていた。思わずもらい泣きしそうになったのだが、グッとこらえた。彼が自分で選んだ道。そこに理不尽で納得がいかない何かがあるわけではないから、「かわいそう」と思ってはならないのだ。その場に座らせてゆっくり話を聞く。
彼は今まで、何事もソツなくこなすやつだった。ダンスもギターも、そこそこの練習だけで周囲の人間から、「うまいよね」と称賛されることができていた。しかし、今彼が身を投じているのは、「本気の集団」。そこそこの練習だけでついていける訳がないのだ。
ダンスレッスンでは、たかだか15分程度の振りの指導だけで、いきなり踊らされ、「ボロボロやな」とコーチから酷評される。吹奏楽では、死ぬほど曲を渡され、一個一個コードを拾い頑張って練習した曲はスルーされ、出来上がっていない曲を指して指導者から「〇〇ぐらいはできるようになっていろ」と厳しいダメ出し。…今まで何かとチヤホヤされてきた分、自分の「できなさ」を改めて突き付けられると、あっという間にWは崩壊してしまうのだった。しばらく前に彼はこんなことを言っていたっけ。「俺はダンスチームでも吹奏楽でも、びりっけつだ…」と。このまま、卑屈になっていじけて、両方投げ出すのかな、となんとも言い難い漠然とした不安を感じてしまった。
しかし。そんな彼にも「負けず嫌い」な部分があったのだ。「でも、かっこよく演りたい」という発言を何回も口にしている。その気持ちが彼を支配しつつあるのか、今日は「ギターやりたくない」というまるで後向きなメールをわたしに送りつけておきながら、心配で大急ぎでわたしが帰宅した時には、ノリノリでギターの練習をしていた。それも歌いながら。部活からの帰宅が遅くなったので、選抜じゃない方の週一の普段のダンスレッスンは休んでしまったものの、就寝前には非常に入念に柔軟体操をしていた。
パーッと吹っ切れたかと思ったら、また闇の中に分け入ってしまい、さまよっている中で再び、一筋の光明を見つけ出して…きっとそんな繰り返しの中で、Wは大きな苦しいと楽しいを自力で獲得しながら、グイグイと大きくなっていくのであろう。なんだかとっても羨ましい。Nからよく「母はもっとWをほっとけば!」とたしなめられる。ごもっとも。手も口も一切出さないことも、出すことを死にもの狂いで我慢することも、子を育むためには必要な時がある。Wは今、自分の足で歩いていくための猛特訓を受けているのだな。それを肝に銘じるのは、わたし自身にとっても試練なのである。
わたしが今Wに提供できるのは、おいしいご飯と、たくさんの笑いと、いっぱい話したくなる空気。多分それだけで充分。わたしも、Wの歩みと共に、強く大きなヒトになっていこう。
で。Wは、本当はドラムがやりたいのです。Y先生、どうかひとつよろしくお願いします…
4月にあったダンスの初めてのレッスンの日。帰り道Wは非常に浮かない面持ちでいた。気に懸り、途中のマックでお茶しがてら話合いをした。本人の言葉では「吹奏楽に打込みたいから、ダンスは辞めてしまった方がいいと思う」という心境になったようだ。
が、その意気込みとは裏腹に、昨日とうとう吹奏楽の練習後、彼は泣きながらうちに帰ってきたのだった。「ただいま!」と元気を振り絞って言ったものの、わたしの顔を見るなり、泣き崩れてしまった。「もう頭がパンパンで破裂しちゃった」と泣きながらこぼしていた。思わずもらい泣きしそうになったのだが、グッとこらえた。彼が自分で選んだ道。そこに理不尽で納得がいかない何かがあるわけではないから、「かわいそう」と思ってはならないのだ。その場に座らせてゆっくり話を聞く。
彼は今まで、何事もソツなくこなすやつだった。ダンスもギターも、そこそこの練習だけで周囲の人間から、「うまいよね」と称賛されることができていた。しかし、今彼が身を投じているのは、「本気の集団」。そこそこの練習だけでついていける訳がないのだ。
ダンスレッスンでは、たかだか15分程度の振りの指導だけで、いきなり踊らされ、「ボロボロやな」とコーチから酷評される。吹奏楽では、死ぬほど曲を渡され、一個一個コードを拾い頑張って練習した曲はスルーされ、出来上がっていない曲を指して指導者から「〇〇ぐらいはできるようになっていろ」と厳しいダメ出し。…今まで何かとチヤホヤされてきた分、自分の「できなさ」を改めて突き付けられると、あっという間にWは崩壊してしまうのだった。しばらく前に彼はこんなことを言っていたっけ。「俺はダンスチームでも吹奏楽でも、びりっけつだ…」と。このまま、卑屈になっていじけて、両方投げ出すのかな、となんとも言い難い漠然とした不安を感じてしまった。
しかし。そんな彼にも「負けず嫌い」な部分があったのだ。「でも、かっこよく演りたい」という発言を何回も口にしている。その気持ちが彼を支配しつつあるのか、今日は「ギターやりたくない」というまるで後向きなメールをわたしに送りつけておきながら、心配で大急ぎでわたしが帰宅した時には、ノリノリでギターの練習をしていた。それも歌いながら。部活からの帰宅が遅くなったので、選抜じゃない方の週一の普段のダンスレッスンは休んでしまったものの、就寝前には非常に入念に柔軟体操をしていた。
パーッと吹っ切れたかと思ったら、また闇の中に分け入ってしまい、さまよっている中で再び、一筋の光明を見つけ出して…きっとそんな繰り返しの中で、Wは大きな苦しいと楽しいを自力で獲得しながら、グイグイと大きくなっていくのであろう。なんだかとっても羨ましい。Nからよく「母はもっとWをほっとけば!」とたしなめられる。ごもっとも。手も口も一切出さないことも、出すことを死にもの狂いで我慢することも、子を育むためには必要な時がある。Wは今、自分の足で歩いていくための猛特訓を受けているのだな。それを肝に銘じるのは、わたし自身にとっても試練なのである。
わたしが今Wに提供できるのは、おいしいご飯と、たくさんの笑いと、いっぱい話したくなる空気。多分それだけで充分。わたしも、Wの歩みと共に、強く大きなヒトになっていこう。
で。Wは、本当はドラムがやりたいのです。Y先生、どうかひとつよろしくお願いします…
5.05.2008
もう一人のお母さん②
「会いに行く」とこころに決めたものの、その直後に全く不本意な形で会社をクビになったり、Nがドイツに旅立ったりWが御蔵島にイルカに会いに行ったり…と、収入はないのに出費ばかりがかさみ、資金繰りのメドが全然つかず、「遊びに行くよ!」というセリフを噛み殺しながら、ママとメールのやりとりを続けていた。
ママとさよならをして19年という時間が経過した。その時間の中で、ママもわたしも、辛い思いや悲しい思いを存分に味わい、わたしはママからのメールに度々涙し、また、わたしのメールを読みつつ涙しているママの姿を想像することは難しくはなかった。
Nがドイツへ行くための航空チケットを手に入れる際、担当のお姉さんに、何気なく「来年の4月くらいの米国往復チケットって、いつぐらいから出てきますか?」と尋ねていた。ゴールデンウィーク前の4月辺りにチケットが安いというのは、前回の渡米の際に経験として知り得ていたのだ。お姉さんに尋ねることで、自分の再渡米が4月なんだ、ということを自らに言い聞かせ決意を頑丈にする結果となった。お姉さんの話では、年明けからぼちぼちと…ということだった。働くぞ!と当時無職だったわたしは、にわかに意欲を燃やした。
その後仕事に就けたのだが、ネコたちのこともあり、お金は流出していくのみ。財布の中身はいつも、渡米への絶望を主張していたのだが、わたしの精神はあまりへこたれることはなかった。「行く」とこころさえ決まれば、今現在手元に資金がないことさえも、なぜか不安要素にはなりえなかったのだ。
年を越して、今年に入ってから、ウェブで日米間の航空チケットの相場をチェックするようになった。具体的に「最低〇円かかる」という情報を仕入れることは、更に刺激になった。そして。ママに会いに行くんだ!という思いが全くゆるぎのないものになった2月のある日、わたしはとうとうママに、「会いに行くよ」とメールで宣言することができたのだ。
もちろん、ママの返答は喜びと嬉しさに満ちていた。ありったけの言葉を使って、大きな驚きと歓迎の気持ちをわたしにぶつけてきてくれた。そこに、19年の時の隔たりは微塵もなく、あの時あのままのママがメールの向こうにいた。
ママとさよならをして19年という時間が経過した。その時間の中で、ママもわたしも、辛い思いや悲しい思いを存分に味わい、わたしはママからのメールに度々涙し、また、わたしのメールを読みつつ涙しているママの姿を想像することは難しくはなかった。
Nがドイツへ行くための航空チケットを手に入れる際、担当のお姉さんに、何気なく「来年の4月くらいの米国往復チケットって、いつぐらいから出てきますか?」と尋ねていた。ゴールデンウィーク前の4月辺りにチケットが安いというのは、前回の渡米の際に経験として知り得ていたのだ。お姉さんに尋ねることで、自分の再渡米が4月なんだ、ということを自らに言い聞かせ決意を頑丈にする結果となった。お姉さんの話では、年明けからぼちぼちと…ということだった。働くぞ!と当時無職だったわたしは、にわかに意欲を燃やした。
その後仕事に就けたのだが、ネコたちのこともあり、お金は流出していくのみ。財布の中身はいつも、渡米への絶望を主張していたのだが、わたしの精神はあまりへこたれることはなかった。「行く」とこころさえ決まれば、今現在手元に資金がないことさえも、なぜか不安要素にはなりえなかったのだ。
年を越して、今年に入ってから、ウェブで日米間の航空チケットの相場をチェックするようになった。具体的に「最低〇円かかる」という情報を仕入れることは、更に刺激になった。そして。ママに会いに行くんだ!という思いが全くゆるぎのないものになった2月のある日、わたしはとうとうママに、「会いに行くよ」とメールで宣言することができたのだ。
もちろん、ママの返答は喜びと嬉しさに満ちていた。ありったけの言葉を使って、大きな驚きと歓迎の気持ちをわたしにぶつけてきてくれた。そこに、19年の時の隔たりは微塵もなく、あの時あのままのママがメールの向こうにいた。
4.08.2008
もう一人のお母さん①
最近吠え過ぎたので、吠えずに済ませられる話題を。Nが読んで自身のサイトの日記で、「うちの母はきつい」と嘆いていたので、少しばかりヘコんでいるのかも。
19歳の年の春、2か月ほどホームステイという形で米国に滞在した。カリフォルニアのフレズノという中都市にいた。高校を辞めて、大検を受けたのだが、手応えがあまりにも悪過ぎたので、「翌年再挑戦の前にちょっと遊びに行ってやる」というノリで渡米準備をせっせとしていた記憶がある。その後、大検は実は合格していたという、うれしいけど泣きたくなるようなオチがついてしまったのだが。ともかく、こころは既に米国 に吹っ飛んでいたので、大学受験準備はその後で…とさっさと折りをつけた。
それはそれは、楽しい2か月だった。思い出すと、今でも19歳のわたしに戻ることができる。英語学校のクラスの多国籍さ。インドネシア、香港、スペイン、フランス、ドイツ、韓国、コロンビア、そして日本…これほどにも母国が様々な仲間たちと、拙い英語で和気あいあいとコミュニケーションを取り、楽しい時間を共に過ごした。わたしが日本に戻る時には、全員と一人一人ハグをして号泣した。未だに全員名前を覚えている。
そしてホームステイ先にも恵まれた。ママは自宅でベビーシッターをして働いていた。一人息子は5年生で、非常にやんちゃで毎日ママが叱り飛ばしていた。パパは口髭をたくわえたとても穏やかな人だった。毎日一緒に話して、大いに笑って、落ち込んだ時には励ましてもらった。帰る日の前日は、パッキングしているわたしの部屋にみんなが入れ替わり立ち替わりやってきて、「あー。あさみは帰っちゃうんだ」と呟いていた。出発当日、洗面所でママと二人並んでおしゃべりをしながら化粧をしていた時。ふいに二人の間に沈黙が入り込んできて、たまらず二人で抱き合って涙した。…もちろん、化粧はやり直し。空港で、最後のハグをした時にママがわたしに言った言葉は、絶対に忘れない。「ここに来たい時は、いつでもきていいよ」と。
この9年ほど、ママとわたし、お互いに連絡をしていなかったのだが、一昨年秋に思い切って久々の手紙をしたためてみた。そこには「この手紙を受け取ったら、すぐに記載のアドレスにE-mailをください」という内容だけを盛り込んだ。しばらくの間、わくわくしながらメールボックスを開いていたのだが、その期待はいつも挫かれていた。引越すかもしれない…という話をかなり以前に聞いていたから、そのせいで手紙は届かなかったかも、という諦めのような感情が出てくるようになっていった。そうして、手紙を出したことさえ忘れ去りかけていたある日。とうとうママからメールがきた。メールがきている事実をみて涙。メールに書いてあるこの何年かでママに起こった事実を読み取り、再び涙。そしてその時に、「ママに会いに行こう」と強く固く決意した。去年の5月くらいのことだった。
19歳の年の春、2か月ほどホームステイという形で米国に滞在した。カリフォルニアのフレズノという中都市にいた。高校を辞めて、大検を受けたのだが、手応えがあまりにも悪過ぎたので、「翌年再挑戦の前にちょっと遊びに行ってやる」というノリで渡米準備をせっせとしていた記憶がある。その後、大検は実は合格していたという、うれしいけど泣きたくなるようなオチがついてしまったのだが。ともかく、こころは既に米国 に吹っ飛んでいたので、大学受験準備はその後で…とさっさと折りをつけた。
それはそれは、楽しい2か月だった。思い出すと、今でも19歳のわたしに戻ることができる。英語学校のクラスの多国籍さ。インドネシア、香港、スペイン、フランス、ドイツ、韓国、コロンビア、そして日本…これほどにも母国が様々な仲間たちと、拙い英語で和気あいあいとコミュニケーションを取り、楽しい時間を共に過ごした。わたしが日本に戻る時には、全員と一人一人ハグをして号泣した。未だに全員名前を覚えている。
そしてホームステイ先にも恵まれた。ママは自宅でベビーシッターをして働いていた。一人息子は5年生で、非常にやんちゃで毎日ママが叱り飛ばしていた。パパは口髭をたくわえたとても穏やかな人だった。毎日一緒に話して、大いに笑って、落ち込んだ時には励ましてもらった。帰る日の前日は、パッキングしているわたしの部屋にみんなが入れ替わり立ち替わりやってきて、「あー。あさみは帰っちゃうんだ」と呟いていた。出発当日、洗面所でママと二人並んでおしゃべりをしながら化粧をしていた時。ふいに二人の間に沈黙が入り込んできて、たまらず二人で抱き合って涙した。…もちろん、化粧はやり直し。空港で、最後のハグをした時にママがわたしに言った言葉は、絶対に忘れない。「ここに来たい時は、いつでもきていいよ」と。
この9年ほど、ママとわたし、お互いに連絡をしていなかったのだが、一昨年秋に思い切って久々の手紙をしたためてみた。そこには「この手紙を受け取ったら、すぐに記載のアドレスにE-mailをください」という内容だけを盛り込んだ。しばらくの間、わくわくしながらメールボックスを開いていたのだが、その期待はいつも挫かれていた。引越すかもしれない…という話をかなり以前に聞いていたから、そのせいで手紙は届かなかったかも、という諦めのような感情が出てくるようになっていった。そうして、手紙を出したことさえ忘れ去りかけていたある日。とうとうママからメールがきた。メールがきている事実をみて涙。メールに書いてあるこの何年かでママに起こった事実を読み取り、再び涙。そしてその時に、「ママに会いに行こう」と強く固く決意した。去年の5月くらいのことだった。
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