虐待による乳幼児死亡のニュースは、最近あまり珍しいものではないですよね。
今日ヤフーニュースを見ていたら、久留米で5歳の女の子が母親に虐待され亡くなった事件において、母親が、その子を洗濯機に入れて回したことがあると供述していた…との記事を読んでびっくり仰天してしまいました。あらまーー。すごい。発作的にやってしまったのかなーと思いきや、口に粘着テープを張り、手足は縛って…ということだったらしいので、もうなんか、やりたいからやったのね、あんた…と呆れるばかりでした。でもって、その行為に対して「しつけの一環として」とおっしゃってるものだから、あぁ、もうこいつ病気だな、救いようのない馬鹿、と感じるしかありませんでした。
そのニュースのことが夕飯時に話題になった際、Nが、「でもさ、その子死んだんでしょ。死んでよかったよね。下手に生きてて、そんなひどい体験のトラウマに苦しみながら生きるのって超ツライじゃん」とバッサリ。確かになぁ。一理あると思う。わたし自身がその子のことを直接救済できわけでもないし。イカレタ親の元に生まれてしまったこと自体が、もう既にその子の未来は奪われたも同然だったと言えるのかしら。宗教によっては、「子どもは親を選んで生まれる」とか「前世の行いによって現在の生が決まる」というようなことを謳うこともありますが、なんだか、この5歳の女の子のことを思うと、そんな文句さえ陳腐に聞こえてただひたすら虚しさを感じるだけです。
5歳の女の子も可哀想なのですが、本心ではそんなことはどうでもよくって、わたしにとっては、近所にうじゃうじゃいる子ネコたちの「現在」と「過去」とそして「未来」の方が気がかりでなりません。今、身近にいる子が二人。一人が4か月くらい。も一人は2か月くらい。らっかが保護されたのが推定2,3か月だったかしら。ちょうど、今外でよく会うあの子たちと同じくらいの月齢で、【おうち】ができたのだなぁ。昨日は、雨が降ったり止んだりでとても不安定な天気でした。夜中勉強を終えたNを本宅に送り届ける時に、4か月の方に会いました。いつもの駐車場。午前1時くらいに毎日ご飯をもってきてくれるおばさんがいるので、雨がそぼ降る中、健気にもその子はいつもの場所で待っていました。
あの子の現在は、きっと今わたしが見ているまま。いつもの場所でいつもの時間に、ご飯をくれるおばさんを待っている。じゃあ、この子の未来はどうなんだ。3ヶ月後、この子は、元気でこの町を闊歩していられるのか。それを決められるのは、決してこの子自身ではないのだな…と思うと、何故か涙が溢れてきました。らっかはその子と同じくらいの歳で、雨に濡れない、寒くない暑くない、ご飯がいつもある、寝心地の良いブランケットもある、【おうち】を手に入れることができたんだよね。じゃあなんでこの子は、毎日毎日こうやって、「今日もおばさんくるかな」と不安げな面持ちで、雨に濡れながら、ご飯を待ち続けなきゃならいのかな。【おうち】を得て、不自由なく生きられる子。【おうち】に恵まれず、つらい苦しいを全部自分だけで背負って生きなきゃならない子。そこの「差」は誰がどうやって決めているのでしょうか。
実の母親に殺された5歳の女の子が可哀想なら、わたしが毎日のように会うこの子も可哀想じゃないかな、とつくづく思います。5歳の女の子も子ネコも、ただ、現在を受け入れるのみで、その先にあるはずの未来が奪われたとしても、それさえ受け入れなきゃならない。自らで未来を決めることができないというのは、周囲のニンゲンに恐ろしいくらい左右されてしまうということ。周囲のニンゲンが悪魔なら、結果は「悲しみ」でしか彩られないでしょう。
しっかりしろ、オトナと呼ばれるニンゲンども。
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